寄稿・みんなの作品

話題にはこと欠かない、真鶴半島自然観察&ハイク =  市田淳子 

日時:2017年3月18日(土)JR真鶴駅9:00集合


メンバー:L市田淳子 渡辺典子、栃金正一、中野清子、開田守

 コース : JR真鶴 ~ 真鶴港 ~ 貴船神社 ~ 灯明山 ~ 森林浴 ~ 遊歩道 ~ 番場浦遊歩道 ~ 潮騒遊歩道 ~ 三ツ石海岸(昼食) ~ ケープ真鶴 ~ 御林遊歩道 ~ 中川 ~ 一政美術館 ~ 岬入り口 ~ 真鶴港近く(反省会) ~ JR真鶴駅


 真鶴は話題に事欠かない場所だ。

 石材業は漁業と並ぶ産業で、「小松石」は江戸城の石垣にも使われた。所々に見られる歌碑も小松石なのだろうか。
 歴史的にも面白い場所のようだが、今日の主役は海と山。真鶴駅から海を眺めながら下って行くと、真鶴港に着く。

 カモメたちが集まりイソヒヨドリの美しい声が聞こえ、山行とは違う趣だ。海の反対側に貴船神社がある。この日一番の難所と言ってもいい急な階段を登ると、本殿が現れ周囲にはサクラが咲いていた。

 海の神様を祀った神社で、漁の無事と豊漁を祈る。貴船神社をあとにして、港の岸壁に整備されている遊歩道を歩く。釣りをする人、岩場で遊ぶ親子、海をぼーっと眺める人、犬と散歩する人…山と同じように海は人々を魅了する。


 港の橋まで行くと、真鶴半島がだんだん大きくなって来て、いよいよ御林に向かって歩く。アスファルトの車道は車で岬に行く人たちのためだが、できれば土の道が欲しい。

 少し歩くと山道の入口があり、やっと土を踏みながら歩ける。地元の人たちは、海に恵みをくれる森を「御林」と呼んで大切にしてきた。
 その御林は「魚つき保安林」として保護されている。

「木々の枝から海面に落ちる虫を求めて魚が集まる」

「樹木の影を魚が好む」

「森から海に注がれる栄養豊富な地下水に、魚が好むプランクトンが集まる」

 などの諸説があるようだが、どれも本当に思える。

 御林には巨木が多く、5人で手を繋いでやっと木の周囲を囲むことができるようなものがたくさんあった。クスノキ、スダジイ、アカマツ、クロマツといった照葉樹の森で、奥多摩や丹沢の山々と違い鬱蒼としている。
 半島にしっかり根を張って強い潮風を受けながら、何百年もの月日を過ごしてきたのだろう。


 暫く歩くと道は下り坂になる。
 三ツ石海岸が近い。潮騒の音、潮風、明るい太陽の光、海岸の植物、山から海に到着。海抜4mの海岸で昼食にした。上空を時折トビが飛翔するが、トビの食事は自然食にしてもらおう。


 昼食後はケープ真鶴に登り、再び御林を歩いて中川一政美術館へ向かった。
 御林の片隅にひっそりと佇む美術館。97歳で亡くなるまで、描く欲望を捨てなかった中川一政氏の人生と作品を始めて知って圧倒された。

 自然ばかりでなく同時に芸術にも触れることができたことは本当に贅沢なことだ。さらに贅沢なのは、港の近くにある定食屋さんで、地元の魚をお腹いっぱいいただいたことだ。

 アジが有名で、アジのたたき、豆アジのフライ、そして、たたきに使ったアジの頭と骨を揚げてもらった。こうして、山、海、芸術、味覚の四つを楽しんだ贅沢な一日だった。(森林インストラクター)

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№210から転載

【寄稿・写真エッセイ】 母の想い = 黒木 せいこ 

 会社の同僚で、いつも元気な森田さんが、最近は落ち着かない様子である。時々ため息をついたり、考え込んだりしている。わけを聞いてみると、一人息子の弘くんが大学受験の真っ最中なのだそうだ。

 森田さんは、50代前半の女性で、ずっと正社員として働いてきた。ショートカットで、いつも背筋がスッと伸びていて、スマートだ。会社ではデザインの仕事をしているので、いつもおしゃれで、さっそうと歩く姿は、いかにもキャリアウーマンのイメージそのものである。

 森田さんのご主人も、デザイン関係の会社を経営している。両親からの芸術家の血が流れているせいか、息子の弘くんも大学は芸大を希望していると聞く。

 昨年も受けたが失敗したので、一年浪人して、今年は二年目の挑戦である。1月に私立の美大を二つ受けたが、ともに落ちた。予備校では大丈夫だろうと言われ、本人も手ごたえがあった大学だけに、かなり落ち込んでいるそうだ。

 それに、仲のいい友人たちが、次々に合格したため、弘くんの失意のショックは人一倍らしい。そんな弘くんを見て、森田さんは、母親としてどうしてやればよいかと、心を悩ませている。


 私の子どもたちはもう社会人なので、「受験生の親」はすでに卒業したが、森田さんの様子を見ていると、当時を思い出す。
 娘の中学受験の時は、その学校まで付き添った。受験当日、冷たい雨が降る中、私たち母子は、朝早くから駅まで歩いて行き、電車に乗った。慣れない満員電車に、娘は気分が悪くなってきた。それでも、何とか受験校にたどり着き、青白い顔をして教室に入っていく娘を、私はなすすべもなく見送った。

 娘は一次試験には落ちたが、あきらめずに二次募集に挑戦し、希望する中学に合格した。学校の掲示板で合格発表を見た瞬間、あまりに嬉しくて、入学手続きの書類を、涙を浮かべて震える手で受け取ったのを憶えている。
 子どもの喜びは、そのまま母親の喜びになる。しかし、子どもが苦しんでいるとき、親は自分の身を切られるようにつらいものだ。  

「こんな落ち着かない日は、お菓子を焼くことにしているの」
 と、森田さんは、家で焼いたクッキーやケーキを、何度か会社に持ってきた。

 彼女はなぜかオーブンが好きだと言う。自ら生地を作り、オーブンに入れてそれが焼きあがっていく状態を見ていると、心が落ち着くそうだ。それはちょうど私がイヤな出来事があったとき、チクチク針を動かしていると、次第に心が穏やかになるのと似ているのだろう。

 3月に入り、その日は会社を休んでいた森田さんから、弘くんが芸大の一次試験に合格したとメールが来た。
「おめでとう。よかったね」
 私はすぐに返信した。
「でも、まだ一次だから合格したわけじゃないよ」
「頑張れ。私も応援してるよ」
「何だか、また胃が痛くなってきた」
「仕方がないよ。親の宿命だもの。ここはまた、クッキーでも焼くしかないね」
「そうする」

 そんなやり取りをした数時間後、大量のクッキーの写真が送られてきた。

 森田さんからだ。私はあわてて、どうしたのか聞いてみると、あのあと、ひたすらクッキーを焼いたというのだ。彼女のやり場のない気持ちが、クッキーの山になったのだと思うと、切ない気持ちになった。
 翌日、森田さんは、その大量のクッキーを少しずつ袋に入れて出勤し、会社の人たちに配った。

 もらったクッキーをそっと口に入れてみると、ほんのりバターの風味がして、甘さもほどよく、とても美味しかった。
 森田さんの、母親としての想いがいっぱい詰まったクッキーで、私は胸がいっぱいになった。どうか願いがかなって、いい知らせが来ることを、心から祈っている。
                
                

霧のなかで硫黄が鼻を突く、 那須三山 = 松村幸信

平成25年10月7日(月)~8日(火) 二日間とも晴れのち曇り

参加メンバー : L石村、武部、野上、市田、中野、松村

ルート:

【一日目】  那須塩原駅 ~ 那須ロープウェイ ~ 茶臼岳 ~ 硫黄鉱山跡 ~ 牛ヶ首(姥ヶ坂) ~ 姥ヶ平・ひょうたん池~姥ヶ平下~沼原分岐~三斗小屋温泉

【二日目】 三斗小屋温泉~大峠~三本槍岳~熊見曽根~朝日岳~峰の茶屋跡~
    那須ロープウェイ山麓駅~鹿の湯~那須塩原駅        



 今秋は、台風が次々と襲来し、雨が多く天候が安定せず、出発の間際までやきもきしていた。

【一日目】

 8:12に到着の東北新幹線で、三々五々と那須塩原駅に集合した。駅前から、8:30発の那須ロープウェイゆきバスに乗車する。車内で購入できるフリーパス券は、2日間は何回でも、乗り降りできて往復料金よりも安く実にお得だった。

 9:45、山麓駅に到着するや否やロープウェイに飛び乗る。
 紅葉時期にはまだ早いと思っていたが、ロープウェイから見える鬼面山は、見事に色づいていて、他の乗客から歓声があがる。

 4分で、頂上駅に到着する。準備をして、茶臼岳を目指し、歩き出す。だが、ガスが掛かり見晴らしはよくない。
 風に乗って、硫黄の臭いが鼻を突く。
 10:45 茶臼岳の山頂に到着した。眺望もなく、集合写真を撮ると、直ぐ先に進む。ガスに巻かれ方向を見失い、お鉢の回りをうろうろ。

 11:35 硫黄鉱山跡分岐に着いた時には、ガスも晴れ、姥ヶ平の鮮やかな紅葉が、目に飛び込んでくる。

 11:41 お腹も空き、山道脇に腰を下ろし、眼下の紅葉を楽しみながらの昼食である。12:36 姥ヶ平、ひょうたん池に写る逆さ茶臼岳と紅葉は見事だった。
 紅葉を思う存分満喫し、今晩の宿である三斗小屋温泉に向かう。

 14:48 煙草屋旅館に到着した。楽しみにしていた露天風呂は基本混浴だが、15時から17時の間は女性専用のため、残念ながら男性陣は内風呂へ。

 16:30 夕食をとり、21:00 消灯。

【二日目】

 4時過ぎに目を覚まし、暗闇の中を露天風呂に向かう。ひとり満天の星を見ながら、静かにゆっくりとお湯を楽しむ。
 夜が白み始めると、次々と人が入ってきて、あっという間に芋洗い状態となる。

 東側に山を背にしているので、日の出が見えないのが残念である。

 6:30朝食をとり、7:05に出発、天気は晴れ。大峠までの間に、三回の渡渉があり台風による増水もなく、全員が無事に渡り9:00に大峠に到着した。

 ここからは尾根道で木立も無くなり、日差しが強く、肌を突き刺す。

 11:14 くたくたになりながらも、三本槍岳に到着し、やっと昼食を摂る。ここまで、予定時間より大幅に遅れる。
 三本槍岳から清水平へ下り、登り返すと、茶臼岳が目の前に現れ、終点がみえたことでほっとする。那須三山の最後の朝日岳に13:19に登頂した。
 バスの時間に間に合うよう、急ぎ下山していく。バス発車時刻の5分前の、14:50に山麓駅バス停に到着する。那須湯本で、途中下車し、硫黄泉質の鹿の湯で汗を流す。
 さっぱりしたところで、再びバスに乗車、17:10に那須塩原駅に到着。今回は天候にも恵まれ紅葉と温泉を存分に堪能した山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№173から転載

三浦アルプス(二子山)立派な一等三角点、横須賀~横浜まで一望=武部実

 山行日 : 平成28年10月12日(水) 

 参加メンバー : L武部、中野、開田、武部弟の計4人

 コース : 逗子駅 ~ 長柄交差点 ~ 川久保 ~ ゲート ~ 二子山 ~ 阿部倉山の裾 ~ 川久保


 逗子駅から長柄交差点までは、バスで5~6分である。国道311号を東に向かって15分ほど歩くと川久保交差点。その横断歩道を渡り、5分で「葉山にこにこ保育園」入口の看板が見えてくる。
 道路を少し歩くと、保育園児たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

 10:04、ゲートに着く。ここから車や自転車は通行止め。ゲートを潜り抜けると、ようやく山道らしい雰囲気だ。森戸川林道である。左岸には森戸川が流れる。樹木が濃いので、日差しがさえぎられて意外と涼しい。気持のいい林道だ。

 この辺から山頂まで、小鳥のさえずりが盛んだ。大きい鳴き声から、可愛らしい小さな鳴き声まで、何種類もの声を聴いたことだろう。だが、残念ながら、小鳥音痴の私にとっては、名前がわからず無念である。
 山頂の直下には「この森で見られる野鳥」の看板があり、15種類の小鳥が描かれている。今度行ったとき時に、確認してはどうですか。

 三浦半島中央道路の下を通り、15分ほど歩いたところが、林道の終点だった。(10:46着)。ちょっとした空き地になってベンチがあり、小休憩する。ここは分岐になっていて、東方向は中尾根を歩いて乳頭山に、北側は森戸川沿いに二子山に行くことになる。

 二子山コースには「マムシ注意」の看板があってドッキリさせられたが、ここから渡渉が始まる。小さい川なので、水量はもちろん少ないが、滑れば相当なケガはまぬかれないだろう。慎重に歩を進める。5~6ヶ所ほど渡渉し、この間にはトラロープが張ってある登りもあって、なかなかのバリエーションぽいルートだ。

 東逗子駅との合流点を過ぎれば、山頂はすぐそこだ。標高は低いが、立派な一等三角点の楚石を確認し、木材で組み立てられた展望台に登れば、眼下の横須賀はもとより横浜まで一望できる。見通しが良ければ、スカイツリーまで眺められるようだ。

 12:10 阿部倉山(161m)を目指して出発。樹林帯の中を小さなアップダウンがいくつも繰り返して歩く。なぜか一か所だけに、大きな50弁ほどの花をつけたトリカブトが咲いていた。もう、そろそろ阿部倉山に着くはずだが、一向に目的の山に着かず、とうとう川久保の登山口まで着いてしまう。
 どうやら阿部倉山を巻いてしまったようだ。これから登る、という地元の人に話を聞くと、わかりにくい場所らしい。それに阿部倉山は見通しも良くないと言われて、まあしょうがないかと納得した。
 13:10という早い時間に下山したので、帰りは逗子駅までのんびりと歩く。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№208から転載

小唄 = 石川 通敬

 人生を豊かにしてくれたものはいろいろある。その中でも、小唄は大きな比重を占めている。最近、最もうれしかったのは、毎年、小唄仲間の唄に合わせて踊ってくれている赤坂の芸妓育子さんが勲章をもらったことだ。
 これまで芸者という職業人が勲章もらったことはなく、彼女が第一号だそうだ。私は彼女の大ファンである。心意気が素晴らしい。
 あるとき赤坂の例会で、育子さんに、
「唄いたい唱があるが、師匠にあなたの身分の人が唄う唄ではない、と教えてもらえない」
 と愚痴をこぼした。すると、私が踊ってあげるから自主トレをしてきなさいと激励された。これを励みに練習し、翌年育子さんに踊ってもらったという思い出がある。
 叙勲の知らせを聞いた時、世間の目は確かだと感激したのだ。

 小唄が楽しい最大のポイントは、苦労して覚えた唱を発表するところにある。赤坂もその一つだが、一番緊張するのが、2年に一度師匠が三越劇場で主催する会で唄うときだ。
 時には半年近く練習を重ね、仕上げる。
 それだけに聞きに来てくれた友人から、よかったよ、と言われた時のうれしさは格別だ。老人ホームにも慰問に行くが、また来てね、と言われると、練習の苦労も吹っ飛ぶ。

 演奏会出演の副産物として得たものが、和服を着る楽しみである。家内の熱心な協力があって実現したのだが、有難いことと感謝している。

 しかし、ここまで来るには、50年の時間がかかった。小唄はマニアックなものと思う。なぜそんなものに関心を持ったのか、というと遠因が二つある。
 一つはビジネスだ。私が就職した50年前には、ビジネスマンの必修科目として囲碁、ゴルフ、小唄の三ゴが上げられていた。
 就職して間もなく私も囲碁とゴルフにはチャレンジしたが、小唄の世界は敷居が高く、長年憧れの対象であった。
 もう一つは、家族の思い出である。母はよく実家の昔語りのなかで、深川生まれの祖母が100年前に、祖父に連れられてサンフランシスコに駐在した。この時に、異文化の地でよく三味線を弾いていたと話していた。
 なぜか、深川、サンフランシスコ、三味線の取り合わせが面白く記憶に残っていたのだ。 

 それでも、40歳前後になると、外国人ビジネスマンを料亭に接待し、芸者の踊りと小唄を楽しむ機会が出てきた。そうした折、チューリッヒに駐在していた時のことである。日本から出張して来られた取引先の役員が、スイスの銀行員との昼食会の席上で、突然、
「小唄をご披露するので、君訳してくれたまえ」
 と私に依頼したのだ。
 その唄には、「こたつ」とか「向島」という言葉が入っており、日本を知らないスイス人が想像することはむりなものだった。だが、何とかその場のピンチは切り抜けた。おかしなもので、この体験が本気で小唄を習いたいと決意させることになった。

 夢が実現したのは、50歳になり、接待で日本のビジネスマン相手に料亭に出入りできるようになった頃だ。ある料亭の女将が、今、稽古をしていただいている春日とよ徳花師匠を紹介してくれたのだ。

 小唄の楽しみは、唄うことだけではない。
 日本の伝統芸能、邦楽、文学に幅広く接することができることだ。唄の題材は、江戸時代の流行り唱から、民謡、清元、長唄、浄瑠璃の世界が中心だが、奈良、平安時代の和歌、芭蕉の俳句まで取り込んでいる。時間的幅の広さは1000年だ。領域の広さは、歌舞伎や新派の芝居の取り込みに象徴される。 
   
 楽しむという観点で特に重要な特徴は、演奏時間が短いことである。短いものは1分。長くても5分だ。そのお陰で2、3時間かかる芝居や、読めば数時間かかる物語のエッセンスが短時間で楽しめるのだ。

 小唄のご縁で、享受しているもう一つの楽しみは、多彩な人との出会いだ。新年会、浴衣会の機会を通し、ビジネス界、官庁のOB・現役から、医者の奥様、女性社長や、師匠の弟子仲間の、神楽坂のベテランから若い美人芸妓まで、これまでに100人を超える人々と出会えたのだ。

 人気の街神楽坂が楽しめることも、気に入っている一つだ。
 師匠のお稽古場が神楽坂にあるので、月に4,5回は神楽坂に行く。そして、稽古の帰りには老人仲間と居酒屋で一杯飲む、それが恒例となっている。
 話題は小唄、三味線談議にはじまり、最近ではトランプ大統領、ときには石油、金融問題などが盛り上がる。

 ある時は、家内の友人とミッシェランの星のあるフランス料理店に行き談笑する。また、お稽古場の向かいにある八百屋での、買い物も得難い恩恵だ。場所柄、その店には料理屋向けの安くて、おいしい旬の野菜がいつもある。

 私は生来、歌が下手だった。習い始めたころ師匠が、「いいお声ね」と言ってくださったのがうれしく先輩に聞いたら、褒めるところがないときに使う常套句だと教えてくれた。
 今でも「いいお声」とよく言われるが、中々うまいとは言っていただけない。だが、たまに褒められるとうれしい。
 小唄にかける思いが、残された人生への活力の源泉となっている。

「了」

消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 八月のくぼみーまえばし = 船越素子

  1

その夏、初めてという時間が

朔太郎さんのまえばしで

それは駅前のロータリーから始まる

「熱風の後にー思索は情緒の悲しい追憶にすぎない」

追憶についてはきっと


地方都市だから わたしの街も

台風到来のうわさとともに

フォークナーへとむかってくる

聞こえるのは失われた音の集積

孵化し蠢く蚕や

女たちのざわめき

八月の光がわたしの胸を射る 

真昼のからっぽの大通りを

書きかけのサーガを抱きしめ歩く
 
 2

欅の街路樹にひきよせられたのは

肋骨のあたり 

燻されていたのだ

汗が したたり落ちてくるというのに

くるり くぼみを反転させる

台風と気象予報士の

不穏で孤独な手続きがよぎる

ブログでもツイッターでもない

手帖であるべき理由を胸の内で一〇個考える

歩き続けるしかないから そこへは

「広瀬川白く流れたり」

  3

ゴーストタウンなのか

通行人1と3のあとで

4になれないわたしが狼狽えている

尾行するものらも

気にかかる

獣と草いきれの匂いがしたから

(蚊帳吊り草、雄ひじわ、えのころ草、ねじばなも)

猫町を猫足で歩く気配のひとよ

  4

ついとあたりをみわたすと

まだ新しい無人ビルが

みずうみのような

かなしみでみたされている

くぼみが水でみちると

八月の ひたひた 

水脈はわたしの胸にたどりつく

いつまで この旅は続くのだろう

そこが曠野であれば

あたらしい光が

また差し込んでくるのだろうか 


八月のくぼみーまえばし 船越素子 縦書PDF 

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 抱擁の標本 = 望月苑巳

さくらのはなびらにじゃれつく猫

猫の暗闇にぼく


ぼくの骨格に似た無邪鬼がいる

とうの昔に夜店で失ったものがそこにある

柔らかな毛並みを抱くと

温かいいのちがはらりと

夢の外へ逃げてゆく

昨日買った手帳にその夢を貼りつける

抱擁を貼りつける

喜びの源はぼくの内側にあったと

その時、気づく

いのちの回数券が減ってゆくように

はらり

はら

さくらは散る時、宙で背を向けるだけなのに

テロメアは

背を向けないまま

弟の命日にじゃれついたのか

これみよがしに

黙々と目を伏せている散華

一枚落ちるたびに生を願い

死を思う

一枚裏返るたびに

一歳、歳をとり

一歳若返る気がする

その弥生は

人を狂わせるだけに存在するようだ

夢の外の闇だまりにはまりこんで

またさくらと、ダンスに興じている

猫が

腕の中でチコンと標本になっているので

ぼくはつるりと泣きだしてしまう

*テロメア=命の回数券とよばれる。染色体の先端にあり

細胞分裂を繰り返すたびにこの部分は短くなって、死んでゆく。


抱擁の標本 望月苑巳 縦書PDF

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 浅草暮れ六つ考 = 高島清子

暮れ六つ刻には

ゆうらりと風呂にお入りになる

詩人菊田守氏のスナック「暮れ六つ」とは

少し異なる話である



浅草仲見世通り

浅草寺寄りの裏の「暮れ六つ」は

好事家の店主が凝り倒して開いたと思しき

江戸趣味の店であった

そこにフランス帰りの生臭坊主の招きで

面白半分で行ったことがある

草茫々にした小庭の石灯籠

踏み石を四つ五つ渡ると

入口の破れ障子に行灯のあかりが映る

廃屋から収集した調度のオンパレード

蜘蛛の巣 戸棚 板の間の軋む板だが

それにけ躓くような年配は来ない


このたよりない明るさの安堵感

緊張の角が外れて行く仕組みとで

ひととき江戸人となって御酒をいただいた

後の夕べには美男を誘い

お銚子二本とお造りと賀茂茄子の炊き合わせで2万6千円也と

五玉算盤を弾くのである

おしゃれ過ぎるわぁと呆れたが

次に訪ねたら閉店の紙が破れ戸板に一枚

余りの洒落に倒れたのか

きのう20年ぶりで浅草寺の帰りに覗いて見たら

まだ「暮れ六つ」は在ったが障子は閉まっていた

大川向うの方から春風と騒めきが吹いてくるというのに

いまだに知らぬ顔で客を帰し続けている

思わせぶりな店であった


浅草暮れ六つ考 高島清子 縦書PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 拳、振りかざす =  齋藤 貢

好きこのんで、誰が

ここに立つというのだろうか。

どこにも、逃げ場のないところ。

危険きわまりないところ。


拳、振りかざし

叩きのめしたいものがありながら

拳は、何度も空を切っている。

そこに、立って。

無力なままに、立たされて。

あの日から

突然に訪れた暴力の洪水に

抗いようもなく、のみこまれた。

たとえ悲鳴が聞こえていても

何ができただろうか。

もろくて小さな塵埃には

差し出す腕もなかったから

あの日。

嗚咽は、やまず

皮膚は瓦礫に擦れ

空には血も滲んでいただろう。

狭いリングの上で

両腕をだらりと垂らしたまま

けだもののように

あの日を、にらみつけるしかない。

手招きで挑発しても

歳月は、ただ黙っているだけ。

敵は、うすら笑っているだけ。

ぶざまだろうが、惨めだろうが

このままでは終われない。

何もかも

あの日のすべてを、ぶち壊してしまいたい。

壊さなければ、終わらないから

くちびるが裂けるまで

まぶたが腫れあがって、たとえ見えなくなっても

拳、振りかざす。


拳、振りかざして

張り倒したい昨日がある。

ぶちのめしたい奴がいる。

もはや

グローブは、必要ないだろうね。

素手で、壊さなければ

叩きのめさなければ

熱い血の滴る日々には戻れない。


それから、だろうか。

生臭い息で、ひとの言葉が語られるのは。


拳、振りかざす  齋藤 貢 縦書PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
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TEL&FAX 042(577)0738

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