寄稿・みんなの作品

【孔雀船104号 詩】 北斎遊泳  高島清子

盆が近い夜であった

六粒(むっつぶ)団子を作っておくれ
迎えに来る足音が聞こえるから

そう言ったのは私の知らない母の母である
霊感というものが母に少しはあったらしく
盆が近づくとその話が出た
  
いま裏の野原に行ってきて
ああせいせいとしたよ

私の幼年の夢では
いつでも地面を軽くひと蹴りすると
空に逃げることができた

もう一人空を飛んだ人がいた

人魂で行く気散じや夏の原    ( 北斎 )
神奈川沖波裏 -北斎.jpeg  
神奈川沖波裏の人が
この世に置いていった言葉のよろしさ

人魂ドローンが気ままに空を行き交う今では
北斎のセンスも少し霞む

私の七月は生と死が行き交う月だ
あの世とこの世の回転ドアを
うっかり押したせいで
行ってしまったか
来てしまったか

六粒団子は六道の辻に置くものである
それぞれが訳あつて
満天の星空が暮れていく

北斎(高島.PDF=縦書きで読めます

【関連情報】
 孔雀船は104号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

イラスト:Googleイラスト・フリーより


                       
                                                   

【孔雀船104号 詩】 耳たぶ 日原 正彦

待合室で 前に
坐ってる人の耳たぶを見ている
大きな耳たぶだ

それから急に自分を叱った

その耳が 今
診察室でどんなことを聞いているのか

何もわからないのに
耳たぶのふくよかなことだけをちょっと羨ましがっているこの愚か者

その人がドアを開けて出てきた
明るい顔でも暗い顔でもなかった
大きな耳たぶはやはり二つあって
二つとも黙っていた

その人の口も黙っている
黙っていることのなかに
その人の 今 が しまわれている
鈍くてもいい
それが光っていてほしい と 思う

私の名が呼ばれた 
私は棒切れのように立ちあがった
貧弱な耳たぶが震える
それを背後から見ているもの
それは たぶん人ではない


耳たぶ日原.PDF=縦書きで読めます

【関連情報】
 孔雀船は104号の記念号となりました。1971年創刊です。
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船104号 詩】 花崖 紫 圭子

    花崖

紫 圭子

           ...エミリ・ブロンテ205歳の誕生日に

波 風の波
エミリ・ジェイン・ブロンテの
髪のうねりが荒野を埋めつくす日
ひとすじ ひとすじ
濃い栗色の反射鏡となった髪は
205年分の光波を独りの崖に映しだす
からだを回転軸にして
くるっ くるっとまわると髪はねじり棒みたいに巻きついて
爪先から螺旋状にひろがって荒野を這う
205年のびつづけた髪のしなやかな波動
毛先は産声をあげて もう 地から芽をだすころだ
エミリーブロンテ.jpg
エミリ
わたしの内なる眼は
この時空を裏返して光波となったあなたをまさぐる
何者をも見逃しはしない炎の眼で
あなたのほそい首から乳房の先へ
やわらかな腹から
血の匂いのする陰部へ
髪は巻きついて栗色の人崖となる
地中の深みへ突き刺さったエミリの髪
地中こそ天空を映す鏡
雲なき空の深みを
水なき地の深みをすすむとき
水分が時間の微粒子であったことを思い知るだろう
魂は水分を渡りきったところから照ってくるだろう
なぜなら たいせつなものは水分にまもられているから
そうして 水分を超えたところに存在するからだ

この肉体の脳も
水に浮かぶ島
周囲を水にまもられて
水を超えたところで光る太陽だ
いつか陽の照らなくなった脳の入江に
わたしたちが時間と呼んだあのなつかしい角質が剥がれていくのを
光波は感知するだろう
そのとき
髪ののびる速度が
肉体時間であることに気づくのだ
肉体の時間がどれだけ進んだのか
髪は見える速度で表現する
切られた髪 切られた爪
の行き着く場所を封印して
わたしたちは涼しげに記憶と呼んだ
ほんとうは火傷するほど熱いのに...

死んだエミリの記憶の断片 髪
切られたエミリの髪
エミリの いのちを
そっと 極細の三つ編みにして
極細のネックレスにして
姉シャーロットが首に巻いたとき
エミリの時間が燃えてシャーロットの喉を締め付けた
循環するネックレス
栗色の
火を吐くキャサリンの分身よ

あの日
S美術館の
展示ケースに入れられた髪
シャーロット・ブロンテが編んだヘアー・ネックレス
が突然わたしの首に巻きついてきた
若かったわたし
喉を焼いた
うれしくって
夢中で叫んだ
〈エミリ!〉
〈ケースにさわるな!〉
警備員のマッドドック
狂犬
男にむかって
エミリが
光波のひきがねを引く
ケースは
粉々に砕けて
捥がれた時間
がとび散った

2023年7月30日
205歳の夏
エミリの髪は
わたしの時間崖に逆巻いて
ヒース咲く
荒野の崖(クリフ) になる


          *エミリ・ブロンテ(1818~1848)
           小説『嵐が丘』と、193編の詩を残した。

花崖 紫 圭子.PDF=縦書き

【関連情報】
 孔雀船は104号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
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イラスト:ウィキペディア(Wikipedia) 「兄のブランウェルが描いたブロンテ姉妹の肖像画の中のエミリー・ブロンテ」より

【孔雀船104号 詩】 遠い春  齋藤 貢

ひとの声が届かぬところに
そっと、火をつけて。
だれにも気づかれぬように
災いや恐怖を、そこに置き去りにしたままで。

春は、一目散に逃げていった。
原発事故 逃げる イラスト.png
取り返しのつかないあやまちをたくさん残して。

汚れたあしうらを
どれほど洗い落としても
土地の痛みは消えないだろう。

みちのくの
小さな声が、見えない春に問いかけている。
火をつけたのは、だれか。
恐ろしい災いを置いていったのはだれか、と。

あの日から、
ひとはうなだれて、肩を落として歩いている。
苦しいなぁと、こころのなかでつぶやいている。

奥歯をかみしめて
必ずまたここに戻ってくるからね、と
ひとは、何度も同じことばを口に出しては
それでもまだ、迷っている。

春は戻って来るのかしら、ね。

みちのくは、花冷えの遠い春だ。

反辞(かえし)


東日本大震災と原発事故によって、ふくしまは、放射線に苦しめられました。そして、ひとの分断にも。強制的に避難を余儀なくされたひと。自主避難せざるを得なかったひと。避難したくても避難できなかったひと。それぞれが孤独な戦いを強いられました。それはまだ終わりません。「帰還困難区域」が残されていて。ふるさとに戻れないひともたくさんいて。

「遠い春+反辞」(斎藤貢).PDF=縦書きで読めます

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船104号 詩】 あたしはカラス  三井 喬子

公園の カラス
ゴミ籠が設置されているが すぐに満杯になる
食べ残しのパンや
飲み残しのジュース
ポリ袋 上手にめくって朝ごはんだ
カラス イラスト.jpg
あたしは カラス
裏山の カラス
朝に鳴き
夜に鳴き
誕生した新しい命を寿ぎ 死者を弔う

あたしは カラス
深山の カラス
内気な カラス
あたしたちが人間とつるみたがるのは
飛翔高度が問題なのではなく
食物の多寡と 鷹の脅威から逃れるためだ

おお あたしはカラスなのだ
時に 生意気な赤ん坊や婆さんを襲うこともあるが
虫であれ 果物であれ
油まみれの袋であれ
つつけば旨いこともある

おお あたしは
忌避されるカラスである
時に慕われ 時には唾棄される
漆黒のカラスである
ベンチの年寄りがステッキを振るが
お前の方が先に死ぬんだよ
分かってるのかあ

おお カラス
それはあたしの名前である
あたしたちの名前である
カラスの髪は緑の黒髪
この世の海辺に 揺らめいている

おお カラス
あたしの名前を呼ばないで

磯嘆きして

死別
引き裂かれてなお
飛べ!


あたしはカラス 三井 喬子.pdf=縦書きで読めます

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 孔雀船は104号の記念号となりました。1971年創刊です。
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【孔雀船104号 詩】 奈良橋通り 小松宏佳   

すれちがうベビーカーの
子に射ぬかれて
わたしの目は
先の歩道橋へ飛んだ
青い四つんばいの鉄骨は
魔人のように清楚だ
立ち上がれば
首のない怖さが哀しいベビーかー.jpg
「きょうも、中川さんに褒め殺されたぁ」
デイサービスから帰ってくると
母は弾む声でぬり絵をみせてくれたっけ
色えんぴつの
花に
人に
動物に
極彩の筆圧がおどる
鮮やかな人生だったのか
願いだったのか
笑顔のむこうにあったものが吹いてくる

空に白い駱駝がくる
母を乗せたひとこぶ駱駝は首を伸ばすと
たちまち瘦せて白骨体になり
散りぢりになった骨はのこらず
空が食べてしまった


奈良橋通り (小松.PDF=縦書きで読めます


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イラスト:Googleイラスト・フリーより

100年前、関東大震災によって被災した2人の登山家  上村信太郎

大正12年9月1日、午前11時58分44秒、相模灘東部、伊豆沖約30㎞の海底を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東一円を襲った。

 これがわが国最大の災害をもたらした関東大震災である。もちろん登山家も被災した。震災が運命を分けた二人岳人を以下に紹介する。

 神奈川県小田原の資産家の次男、辻村伊助は日本山岳会の創期会員にして東京帝大農芸化学科卒の植物学者。精力的に日本アルプスの山々で冬期登山や大縦走を行っていた。

 大正2年、伊助は園芸の研究とアルプス登山を目的に渡欧。敦賀~ウラジオストク~シベリア横断~ヨーロッパへ。スイスのユングフラウ(4158m)、メンヒ(4099m)、8月、グレース・シュレックホルン(4078m)を登攀するも下山中にナダレで遭難した。ガイド、日本人の友人ともに重症。インターラーケンの病院に長期入院する。
 入院中に看護師ローザ・カレンと愛を育み、帰路ふたりはロンドンの日本領事館で結婚。香取丸に乗船して帰国した。


 伊助はその後、小田原で実兄の常助と「辻村農園」を経営するかたわら、高山植物の栽培と研究に没頭。大正9年、子供・夫人と一緒にスイスを訪れる。翌年に帰国。箱根湯本に1000坪の「高山園」を開く。

 大正12年9月1日。関東大震災が発生した。伊助の家屋、庭園は跡形もなく土砂に押し流される。3年後、伊助夫妻、三人の子供、使用人の遺体が発見された。
 伊助、享年37。遺稿『スウイス日記』は、アルプスの美しさ素晴らしさを日本で初めて紹介した名著といわれている。

 犠牲者の数から関東大震災は東京が中心地と思われがちだが、辻村伊助の悲劇でもわかるように「揺れ」そのものによる直接被害は南関東に集中し、震源に近い横浜は震度6の烈震で、東京は震度5の強震だった。
関東大震災 横浜.jpg
 横浜だけでも倒壊家屋23000、死者24000人。市街地はほぼ全滅、外国人居留地の住民の約8分の1が犠牲になったといわれている。

 震災で被災したもう一人の登山家は、アメリカ人のオーティス・マンチェスター・プールである。震災発生時は横浜の外国人居留地にあった商社の総支配人をしていた。当時43歳。明治13年シカゴ生れのプールは8歳のとき、茶の仕入れ業をしていた父の希望で家族と一緒に横浜に永住するため来日した。
 成長して明治28年にイギリスの船舶売買会社ドッドゥェル・カーリル商会に入社、大正5年にドロシーと結婚、山手68番地に住み、3児をさずかる。震災前には日本支社の総支配人にまで出世していた。


 プールと山の関わりは12歳のときに父と登った富士山だった。それ以後は自分で企画して伊香保、白根山、妙義山、富士山などを登り、明治37年に槍・穂高など、北アルプス240マイル大縦走を達成。この山行により、イギリスの王立地理学会の会員に選ばれ、日本山岳会にも入会した。
 神戸に赴任した時は、イギリス人が創設したハイキングサークル「神戸マウンテンゴート・クラブ」に入会して熱心に六甲山へ通った。また爆発後間もない磐梯山へも出かけている。


 時間を関東大震災発生時に戻す。プールの勤務先は外国人居留地のほぼ中央にあり、日本人50人を含む60人が働いていた。
 正午少し前、個室にいたときに激しい揺れが始まり、約4分間続いた。その間、人々は激しい揺れに翻弄され叩きつけられ、梁はきしみ壁が割れ床は隆起し、いつのまにか天井から空が見え、壁崩壊の轟音と土埃で視界が閉ざされた、とプールは回想している。

 最初の揺れの後、静寂がきて再び激しい揺れがつづき、壊れた家屋のあちこちで火災と強風が発生した。
 プールはひとりでなんとか倒壊をまぬがれた自宅に辿り着き、日本人の下男から避難した家族の安否を知らされ、瓦礫の街へ家族と友人を捜して彷徨する。ついに家族と再会。到着した安全な救援船に避難することができた。

 2年後プール一家は横浜を去り、ニューヨークへ。そして震災から40年後、プールがロンドンの出版社から一冊の震災体験記(日本版の題名は『古き横浜の壊滅』)を刊行したことにより、横浜の外国人居留地における震災の詳細が初めて世界中に知られることになったのだった。

                          写真=横浜開港資料館


 ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№288から転載

一等三角点を訪ねて(Ⅰ) 関本誠一

三角点というと以前は単なる地図上の記号としか見ていなかったが、最近は登頂の証しとして山頂でタッチするようになってから親しみを持つようになってきた。
登山者にとって登山者にとって馴染み深く、とても大切なものであることから本コラムを書くことを思い立ったのでお付き合いください。

一等三角点 1.jpg
 三角点は等級毎に一等から四等(...五等三角点は沖縄県・ハテ島、神山島の2か所のみ)に区分され全国に設置されているのは知られております。では一番最初の基準となっている一等三角点からひも解いてゆきますが、その前に疑問が浮かびます。
 その一つが三角点のおおもと(原点)です。さて、それはどこにあると思いますか?そこで、今回は『原点』のお話し。

 まずそのうちの一つ、標高の基準(水準点)のおおもとが日本水準原点(Japanese datum of leveling)ですが、東京都千代田区にある国会前の庭園(憲政記念館敷地)内の日本水準原点標庫という建物の中にあります。
 東京湾の海水面を基準に作られており、1891年(明治24年)旧参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)があった場所に設置されました。普段、水準原点は非公開でそのものは見ることができませんが、年に一度、測量の日(6月3日)近辺で一般公開されるそうです。
 
 次に経緯度の基準(三角点)のおおもとが日本経緯度原点(Japanese origin of longitude and latitude)ですが、水準原点設置の翌年、1892年(明治25年)に旧東京天文台(現・国立天文台)の子午環を日本経緯度原点として定めました。しかし1923年(大正12年)の関東大震災により子午環が崩壊したため、その跡地に金属標(写真中央部の黒点)を設置し、今日に至っているそうです。
 その場所とは東京都港区にあるロシア大使館の裏側の敷地で、そこに記されている原点数値(緯度・経度)は【3.11】東日本大震災による地殻変動に伴う修正も行われ、現用の施設であると同時に史跡として港区指定文化財にも指定されています。

 因みに、この原点から一番近い一等三角点(東京・大正:25.4m)ですが、隣接のアフガニスタン大使館(旧国交省分室)の敷地内にあります。残念なことに現在は立ち入ることはできないため塀の外から黄色三角標識(写真)を眺めるだけである。

一等三角点 3.jpg

 最近はGPS計測による電子基準点が全国に1300か所ほど設置されており測量技術も時代の流れとともに変わりつつあります。

 写真は東京・練馬区に設置してある電子基準点(高さ5m)です。
 
 次回は三角測量に関するお話しです。(続く)


   ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№219から転載

【孔雀船102号 詩】  高円の野 水島英己

移り行く 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも  
兵部大輔大伴宿禰家持   


二月二十五日
もつれ結ぼれた心を うららかな
春の日にひばりが上がる景に
対比させた きみは
八月の十二日に 友人たちと
高円の野に酒を提げて登った ここは
酒と徳利.jpg友情だけを 酒とともに味わう 遊宴の地
「をみなへし 秋萩しのぎ さ雄鹿の 露別け鳴かむ 高円の野そ」
好きな秋の景物をまき散らしたのは
隠したい何かがあったからか
無邪気な一人の友は
「男同士、衣の紐を解いて飲もうよ」と笑った 四年後に
彼はクーデターの一味ということで処刑される
膨大な日記がわりの きみのアンソロジーには 縊れた首の
いまだ嘆きを知らぬ多くの歌がある
「所心(おもひ)」を述べると書きながら、季節を歌うのがきみたちだ

翌年 難波に滞在していたらしいきみは 高円の秋の野を思いつつ 
独りで六首連作の歌を詠んだ その注に「拙懐を述べて作った」とある
六首目は
「ますらをの 呼び立てしかば さ雄鹿の 胸別け行かむ 秋野萩原」
ある注釈者は「秋野萩原」は
「夕波千鳥」にも似る美しい造語だと 褒めている
「拙い懐(おも)ひ」、拙懐とは何か きみはいつも隠している さ雄鹿のきみは
ますらをのきみを いかに思っているのか

最後の高円の野は
「秋野萩原」から四年後の天平宝字二年に
きみを含めた四名で「興に依り、おのがじし高円の離宮処を思ひて
作れる歌五首」として現れる そのなかの二首がきみの詠だ
アンソロジーの終わりのきみの歌まで、数首隔てるだけ
「高円の 野の上の宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代遠そけば」
きみが敬愛した聖武の離宮は荒廃してしまった その御代も遠くなった
わずか二年前の崩御なのに きみにはそう思える だから
「延ふ葛の 絶えず偲はむ 大君の 見しし野辺には 標(しめ)結ふべしも」
大君のご覧になった野辺には 標を結うべきだというのだ
これ以上 荒廃させたくない 彼らから

簒奪者たちを 
神話時代からの内兵としての伝統と誇りが許さない しかし
秋萩 をみなへし さ雄鹿 露 秋の野
変わらない秋の景も 崩壊する
きみの高円の野は まだあるか 

高円の野・水島英己.PDF縦書き


【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 スリッパは見た!!  田中圭介

氷河期の平原に陽が射していた
マンモスに蹴散らかされ斃れた狩人は
皆に囲まれて美味しく食べられそしてまた生き返った
吹雪く日の洞窟は猿団子で温かったし 
今世紀 凍えた焼死体が死ねずに行進していると男
またぞろ 目元が夕焼け小焼けと女
           
マグロ大トロのイラスト.pngだから天空を泳がないうちのまぐろは旨くないのだ
夢のなかを自由に回遊しそして静かに眠る
世の中には熟成した味というものがある
それも大トロの想像の舌触りがまた旨いのだ
わたし 活きた魚を食べたいわ
この刺身あなたといっしょ 氷河期のままなんし
 
九州男子は愛しているなどと口走らない
黙ってこころの蓋を内側から見詰めておれば 
ふつふつと発酵する音が聞こえて無言の旨味になる
透き通った芳醇な愛はこうして仕込まれるのだと 
四分六の焼酎の揺れる水平線 まぐろが跳ねた
コップを透かして向こう側の魚眼をチラッと見た男

葱を刻む音で男はぼんやり目を醒ます         
冷蔵庫のなかで呼吸をしていた無精卵が
単純に目玉焼きになる朝だ
煙の見える映像と味噌の立つ匂い
遠くでマンモスが吼えた 電車の警笛のように
長閑な天気で蠅が一匹窓硝子に取り付いた

ここから地球の隅っこの路地裏が見える
あの辺りが1丁目と二丁目の境目
その先の河原の石積みは良く見えない 
この俺を喰う者もいないと男   
女は男の下着を丸めて洗濯機に放り込むや
携帯で誰かにお昼のお刺身定食を誘っている

スリッパは見た 田中圭介.PDF 縦書き 

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