モンブラン初登頂者の謎=上村信太郎
スポーツ登山の発祥は、スイスの科学者オーラス・ベネディクト・ド・ソシュールのモンブラン(標高4807m)登山とされる。
それ以前は「高山の山頂に立つという目的」での登山行為ではなかった。また高山の氷河の上でビバークすると生きて帰れないという迷信もはびこっていた。
ジュネーブ生まれのソシュールは、幼年時代から博物学に興味を持ち山々を歩き回るのが好きだった。
20歳のときに植物採集を目的に初めてシャモニーを訪れ、ブレヴァンの展望台からシャモニーの谷越しにモンブランを眺めた。
このとき、当時は登頂不可能とされていたアルプスの最高峰モンブランに登ろうと固く決心して名案を思い付く。モンブランに登頂できるルートを発見した者には、だれでも多額の報奨金を支払うと発表した。時に1760年7月24日であった。
それ以後、ソシュール自身も含めた多くの真剣な試登が繰り返されたがいずれも失敗。ようやく初登頂されたのは27年後であった。
1786年8月7日、シャモニーの医師ミシェル・ガブリエル・パカールと、24歳の水晶採りジャック・バルマの二人がボソン氷河からモンブラン登頂目指して出発。彼らはル・モンという村で落ち合い、その日は氷河の手前でビバーク。
翌朝4時半に出発し、午後6時32分にモンブランの絶頂に立った。パカールは山頂で高度や気温を観測。19時前に下降を開始。真夜中に出発地点まで下降してビバーク。二人は2400m以上の標高差を一日でピストンしたことになる。
翌朝、雪目になり両手が凍傷になったパカールはバルマに導かれて下山し、帰宅したバルマは重病だった乳幼児の娘が入山中に亡くなったことを知った。
下山後、バルマはソシュールを訪ねて報奨金を受け取った。
その翌年8月、ソシュールは一人の召使とバルマの他に、食料や科学実験用器具などを担ぐ18人のガイドとポーターを引き連れてモンブランに挑み、ソシュール夫人が麓から望遠鏡で見守るなか登頂に成功。
このソシュールらによる一連の登山行為が「スポーツ登山」を誕生させ、やがて明治期にイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンによって日本にも紹介され、やがて今日の「百名山ブーム」に至ったとされている。
モンブラン登頂から1ヶ月後、町ではある噂が広がった。「パカールは途中で疲労して落伍した。バルマが一人で登頂した」というもの。この噂は結果的にバルマを英雄に仕立ててしまった。
1841年、79歳になったバルマは、文豪アレキサンドル・デュマの取材を受けて「パカールは途中で何度ももう歩けないと言ったが無理やり引上げた」などと答えた。
だがその後、ドイツの科学者ゲルスドルフがたまたまシャモニー滞在中にモンブラン初登頂の様子を望遠鏡で目撃したときの日記とスケッチが発見され、それによれば「彼らはしばしば先頭を代えて進み、6時32分に絶頂に登った」と記されていて、デュマの記述と正反対の内容であった。
そして、初登頂からじつに143年後になって、パカール本人が書き遺した手記が発見され真相が判明して『アルパイン・ジャーナル』に掲載された。それには、「荷物を分担しょうとバルマの他に案内人を連れていこうとしたが、報奨金を独占したいバルマが断った。私たちはほとんど同時に山頂に着いた。」と記されていた。
今、シャモニーの町の中心地に二つの銅像が建つ。ソシュールと一緒に並び立ってモンブランの方向を指さしているバルマの像と、もう一つはパカール一人が座っている像でパカールが名誉を回復してから新しく建てられたものだ。
それにしてもバルマはなぜパートナーを生涯中傷し続け、パカールもどうして自らの山行記を最後まで発表しなかったのであろうか…。永遠の謎である。
ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№216から転載