寄稿・みんなの作品

【孔雀船より】八月のくぼみーまえばし

  1 

 その夏、初めてという時間が
 朔太郎さんのまえばしで
 それは駅前のロータリーから始まる
「熱風の後にー思索は情緒の悲しい追憶にすぎない」
 追憶についてはきっと
 地方都市だから わたしの街も
 台風到来のうわさとともに
 フォークナーへとむかってくる
 聞こえるのは失われた音の集積 
 孵化し蠢く蚕や
 女たちのざわめき
 八月の光がわたしの胸を射る 
 真昼のからっぽの大通りを
 書きかけのサーガを抱きしめ歩く

  2

 欅の街路樹にひきよせられたのは
 肋骨のあたり 
 燻されていたのだ
 汗が
 したたり落ちてくるというのに
 くるり くぼみを反転させる
 台風と気象予報士の
 不穏で孤独な手続きがよぎる
 ブログでもツイッターでもない
 手帖であるべき理由を胸の内で一〇個考える
 歩き続けるしかないから
 そこへは
「広瀬川白く流れたり」

  3

 ゴーストタウンなのか
 通行人1と3のあとで
 4になれないわたしが狼狽えている
 尾行するものらも
 気にかかる
 獣と草いきれの匂いがしたから
(蚊帳吊り草、雄ひじわ、えのころ草、ねじばなも)
 猫町を猫足で歩く気配のひとよ

  4

 ついとあたりをみわたすと
 まだ新しい無人ビルが
 みずうみのような
 かなしみでみたされている
 くぼみが水でみちると
 八月の
 ひたひた 
 水脈はわたしの胸にたどりつく
 いつまで
 この旅は続くのだろう
 そこが曠野であれば
 あたらしい光が
 また差し込んでくるのだろうか 

【孔雀船90号より】 みぞれ風味、藤原定家 望月苑巳


呑兵衛の愚痴のような雨がようやくやんで
日付を踏み越えた夏がぺたりと貼りつく
すだれを風のしっぽが揺らしている
開襟シャツの胸元をはだけて
「涼しくな~れ」
ぼくは滝のような汗を言葉のタオルで拭く。
おーい、アイスクリームかなにか、ないのか
奥から、かき氷ならあるわよ
と、声が往還して、すだれをくぐる。
風鈴がやけ気味にファの音ばかり連打するので
また汗が噴き出す。
まなかいに飛行機雲が白い線をひいてゆく
ぼくの喉はとうに砂漠になっている
どうぞ氷みぞれを召し上がれ
気の利く女房殿がお盆に載せて持ってきた。
それをかきこむと
飛行機雲は青いキャンバスの外へ
劣化してゆくのが見えた
いらかの向こうに烏帽子が見えた
藤原定家が式子内親王の手を握ろうとして
コケるところだった
色ボケ爺になったのかい
やめなさいよ、そんなこと
ぼくが頭から氷みぞれをぶっかけると
定家はあたふたと秋の苫屋に逃げ込んだ
女房殿が蚊取り線香を持ってきて縁側に置く
朝顔を止まり木にしていた蜻蛉の首が
スッともげて落ちた

南アルプスの雄峰は花盛り・北岳の山行記=市田淳子

北岳(3193m) 山行記=市田淳子

期日 :2017年8月4日夜~7日 

コース:芦安駐車場(泊)→広河原→八本歯のコル→北岳山荘(泊)→北岳山頂→右俣コース→白根御池小屋(泊)→広河原→芦安駐車場

『山行』

 北岳は、想像した通りではなく、想像を超えた素晴らしい山だった。

 ちょうど1年ほど前、インストラクターの友達がSNSで北岳の様子をアップしていた。そこには100種類以上の花を見た、とあった。
 この日私は、「来年は北岳に登るぞ!」と心に決めた。

 1週間前には、8月5日から7日は雨の予報だった。「ああ、神様!ありがとうございます!」どうやら、山に行くことを許してもらえたようだった。

 メンバーは自然保護活動をする仲間だ。ゆっくりお花と景色を眺めながら登りたい、という共通の想いがあり、コースタイムの2倍の時間で計画を立てた。

 広河原には、多摩地域でも見られるような植物が多かった。それも澄んだ空気と豊かな水溢れる環境で、ずっとずっと元気に見えた。
 登るにつれて、植物相はどんどん変わるのがわかる。雪渓が見え始めると、ミヤマハナシノブという絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている群落が現れた。何と美しい色、何と爽やかな光景、絶滅危惧種とは思えない群落だった。
 ここまで来ただけでも、花の種類が多く、少し息が上がっても、足元に可愛い花が見えて、頑張る気持ちにさせてくれる。


 やがて、雪渓の脇を登り、やはり南アルプスだと思い知らされる厳しい道が続いた。だんだん、お天気も怪しくなるが、もう引き返すことはできない。
 そろそろ、梯子の連続だと思う頃には、岩場となり、高山植物があちこちに見えてきた。私の好きなチシマギキョウも咲いている。梯子の辺りで雨が降って来て、滑らないように慎重に歩いた。
 厳しい環境でも、夏を謳歌するように咲いている高山植物に癒されながら、登り切った。

 そこは新たなお花畑で、尾根伝いに無数の花が咲いていた。努力が報われた瞬間だ。
 山荘を目の前にして、お母さんと6羽の幼いライチョウに出逢った。再度、神様に感謝した。南アルプスでは少ないといわれているライチョウが、目の前にこんなにもたくさんいるとはおどろきだ。
 目の上が赤い幼鳥は雄だろうか。
 みんな無事に大きくなってほしい。


 次の朝は、噓のように晴れていて、雲の上に頭を出した富士山と、その左側の山から登る朝日とを拝んだ。山荘を出発すると、またしても、ライチョウの親子に出逢った。昨日と違う場所、足環の色も違うから、別の個体だろう。朝から幸先がいい。

 北岳山頂までの道は、花また花がつづく。花の名前を紙面に書いていたら、1ページがそれだけで終わりそうだ。ミヤマ~、タカネ~、シコタン~、ハクサン~…名前にこんな冠がついただけで、途端に高貴に見えてくるのは気のせいだろうか。
 山頂から下ると、また、植物が変わって来る。下界が少し近づくのを感じながら、白根御池小屋へ。

 そして次の日、広河原の駐車場へと向かう。途中で、今まで誰も見たことのない植物が現れ、話題になった。これも楽しい思い出になるだろう。
 後日、それがセリバシオガマだと判明した。こんなに贅沢に時間を使った山行であり、東京に戻っても、なおも花談議が続いている。
                  (森林インストラクター)

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№217から転載

春蝉鳴く倉岳山、富士は雲にそっと隠れ = 開田守

倉岳山(990m)=開田守

平成29年5月28日 (日) 晴れ

参加メンバー : L原田一孝、武部実、金子直美、開田守の計4人:

コース : 鳥沢駅~小篠貯水地~分岐・石仏~高畑山~穴路峠~倉岳山~立野峠~梁川駅


『山行』

 高畑山・倉岳山は大月市平成4年公布の、秀麗富獄十二景の9番山頂です。 集合は鳥沢駅9時。
4人 そろったのでさっそく出発した。
 線路沿いを歩いて行くと、行き止まり。おっと、最初が肝心。駅に戻って甲州街道を東へ、古い家並みを歩いて行くと、季節がらツバメが飛び交う。ヒナのいる巣 もちらほら。

 中央本線のガ-ドをくぐって、桂川を虹吹橋で渡り小篠集落に。やがて、ゲ-トのある所 に、ここが登山口である。
 ゆっくりしたペースで、山道を行くと、小篠貯水地があった。このあたりの水源になっていると聞く。池の左手をたどると広い道はすぐに終わり、植林の中のうす暗い山道となった。

 オシノ沢を渡り返し、何かいい気分にさせてくれた。新緑のうす緑からの木漏れ日が、何とも清々しくて、爽やかで気持ちがいい。まもなく石仏のある分岐にさしかかる。 まっすぐに進むと、穴路峠である。


 あとで合流しますが、右の急登の斜面を行く。やがて尾根に出ると、徐々に傾斜がゆるやかに、そして平らな道になると、小屋跡の小平地に着いた。ナベとか茶碗とかがころがっている。

 それから植林に入ったあたりは、ゆるやかになった。だが、すぐに急登となる。しばらく続きましたが徐々にゆるやかになっていく。そして、明るくひらけた高畑山山頂です。

 早いけれど、日陰で昼食を摂る。

 富士山は雲に隠れて見えません。 穴路峠へ向かい出発する。。滑りそうな急な下りを行く。急坂が終わると、ゆるやかな尾根をアップダウンして穴路峠へむかう。
 先程の分岐からの道と合流した。このあたりには可愛いギンランが、あっちにもこっちにも咲いている。
 峠から松林の尾根を進むと、苦しい急登になる。ヤマツツジがあちらこちらにまだきれいに咲いている。道の傾斜が緩み、倉岳山の山頂に着く。12時45分だった。


 春蝉が何匹か鳴いている、今年ははじめて聴く。山頂南面は立木を刈り払い、眺めはとてもいいが、富士山は雲に隠れて見えずだった。
 ここで15分ほど休み、立野峠へむけて出発する。。固定ロ-プもある急坂を下って行く。何かとても良い匂いがしたけれど、匂いの源は分からずじまい。

 狭い尾根上の立野峠から、折り返すように北西へ下って行く。薄暗い植林のなかを急降下してジグザグに行く。
 小沢を何回か渡り返しするうちに、大きなトチの樹があった。

 梁川駅の時刻が気になりスピードを上げて下って行く。梁川駅には14時45分に着いた。それでも、高尾駅行にはまだ10分ほどありました。この山は、冬に来た方がいいのかなぁ。

 反省会は高尾駅南口で。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№214から転載

高山植物の宝庫の山行なり、四阿山 = 武部実

四阿山(2354m・長野県と群馬県の県境)

山行日:平成29年8月23日(水)
 
参加メンバー:L武部実、栃金正一、佐治ひろみ、中野清子、開田守の計5人

コース:上田駅からタクシー~菅平牧場~根子岳~十ヶ原~四阿山~中四阿~小四阿~菅平牧場~菅平高原ダボスバス停

『山行の記録』

 出発点の菅平牧場の標高はすでに1590m。高原の風は爽やかだ。根子岳に向けて9:00出発。登り始めて直ぐに両側には花が咲き乱れていた。
 ハクサンフウロ、ツリガネニンジン、ヤナギラン、クルマユリ、アキノキリンソウ、ワレモコウ等々。そして田中澄江が花の百名山に記述しているウメバチソウも数輪見かけたが、何といっても今回の高山植物のチャンピオンはマツムシソウだ。

 根子岳から四阿山のいたるところに、うす紫の花が群生していたのである。茎が長く、いまにも倒れそうな姿は、ここだけの品種なのだろうか。

 一時間ほど登ると樹林帯に入った。このあたりから雨がぽつりぽつり、天気予報は晴れだったのになあ、中止になった霞沢岳は逆に晴れるし、どうもこのところの予報ははずれが多い。灌木帯に入ったころころから、大勢の高校生とすれ違う。

 日体大荏原高校の生徒で150人ほどが来てるという。全員に「こんにちは」と声かけられるのはいいが、相手は一人、こちらは全員に返答するので、これだけでくたびれてしまうほどだ。

                  (根子岳山頂にて) 

 11:10、根子岳(2207m)山頂に到着した。広々として気持ちのいい山頂だが、残念ながら眺望は無い。
 四阿山から縦走してきた大学生の集団が着き、とたんに大賑わい。雨が小降りになってきたので昼食を摂り、11:45に出発。

 十ヶ原へ降るころには雨がやみ、正面に四阿山が見えはじめ、写真を撮るなど、まだ元気だった。シラビソ林の登りは、意外と急登で踏ん張りどころだ。
 稜線に出ると(11:25)、あとは緩やかな登りで、菅平牧場への分岐を過ぎ最後の階段を登り終えると四阿山の山頂に着いた。(14:00)。


 山頂は狭く、根子岳の十分の一位。天候が回復し、見晴らしも改善されてきた。南方には浅間山、その左手には、ノコギリのような妙義山がはっきりと眺めることができた。北方は残念ながら雲におおわれている。晴れていれば、北アルプスも眺められたはずだ。

 14:25に出発。登ってきた道を引き返し、鳥居峠への分岐を過ぎ、中四阿への分岐を下る。
 途中、右手に見える根子岳は、形のいい山容を見せていた。中四阿と小四阿を過ぎ菅平牧場登山口に着いたのが、17:30だった。
 靴を洗って出発したが、菅平高原ダボスバス停に着いたのが、最終18:35の5分前だった。雨に降られたが、花がいっぱい見られて、景色も良く、まあまあの山行だった。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№218から転載

【孔雀船91号より】 眠れぬ夜の百歌仙夢語り〈七十七夜〉望月苑巳

 朝起きて私と顔が合うなり、まるで条件反射のように角を生やす我がマグロの女房殿。言葉の十字砲火、怒りにロックオンだ。台風ならカテゴリー4くらいの強さか。

「トイレを使ったら必ず窓を開けてよね」
「え~っ、お風呂の水もう抜いちゃったの、これから洗濯に使うんだったのに~。勝手にやらないでっていつも言ってるでしょ」
「パンツは裏返しに干さないで、タオルは端をピンとさせてよね。いい加減常識でしょ」
「そんなところに突っ立ってないで。邪魔よ!」
 しまいには付録でこんな一言も。
「何でも先にやらないと気がすまないんだから。きっとあなたは棺桶の蓋まで自分で閉める気ね」
 よく聞くと、身体が太っているので言葉も太っている。
「あなだはがんおげのぶたまでじぶんでじめるぎね」
 〝立て板に文句〟とはこういうことを言うのだろう。苦情のデパートだ(どこかで聞いた言葉だな)。次は「勝手に息を吸わないでよ」なんて言いかねない。オゾロジヤ~。といいたいところ。だがそこは大人の対応で、額を床につけ速攻で謝る。

「申し訳ございません。どうかお許しください、奥方様」
(ウソダピョン?もう古いかも)。非常識な顔(どんな顔だよ)が、こちらも条件反射になっている。悲し~い。ひょっとしてオイラはドMかも。


 でも逆に考えれば、この言葉の速射砲、実はマグロの女房殿の健康のバロメーター。今日も元気印の証拠だと考えればいいだけ。先に逝かれちゃ寂しいからな。
 次女の希望が朝シャンしたらしく〝貞子〟のような姿で降りてきた。
「オカーサン、それじゃオトーサンが可哀想。まるでカスみたいじゃない」と助太刀に入ってくれた、と思ったら続けて「オトーサンにも生きる権利があるんだから」だと。

 これじゃ共謀罪が成立するぞ。ファッショだ、人権蹂躙だ、祭りでワッショイ! (おちゃらけてはいけません=天の声)ドンビキの2乗。北のミサイルより怖いストレス爆弾が恐怖の大王のように降ってくる。
 ドツボのミックスジュースでついつい「俺を空気と思ってくれ」と言ってしまった。すると、
「空気もオナラするのね」
「それはきっと空気漏れだよ」
「空気漏れってなんでこんなに臭いの?」
「腸内フローラが悪さするからだろ」
「いいものばかり食べさせてあげてるのに、恩知らずね」
「どうせ町内の不良ら、のせいさ」
 恩知らずですみません。風評被害が怖い。

 これ以上言うとまた反撃を喰らう羽目になるので、ただただお腹をさするばかりのオトーサンでありました。おやっ、お腹が無礼千万にもコダマしています。アブナイアブナイ。南無阿弥陀仏。いつものように、コソコソと地下の秘密の部屋へ退散といきますか。

 気分一新、天変地異、無知蒙昧が、まさかのジャーマン・スープレックスを食らって床にはべっていた本を開く。不埒な日本人の本質みたり春の宵、ってなわけで、第二幕へアタッカで続く。


   ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山かすみたなびく

 突然の場面転換で驚いた向きもあろう。この百鬼夜行のエッセイにふさわしいカスタマイズされた展開にお付き合いいただきたい。
 昨年の夏は猛暑ではなく酷暑という言葉がふさわしい。地球温暖化に加えて台風5号が列島縦断、熱波の置き土産、いや最後っ屁というべきか。

 だからこの春こそは心をほっかりさせてくれる歌でも…と思った次第。冥途の土産にいいかも。
 新古今和歌集巻一春歌上にある後鳥羽天皇の歌だ。元久二年三月の三十首御会で「後鳥羽院御集」に収められている。

 一見平明でさらりと理解できる歌だと思ったら大間違い。恐ろしい細工が仕掛けられているからだ。
 さて、そこで問題。頭の「ほのぼのと」はどこにかかるのでしょうか。

 本居宣長は「春こそ空にけらし」だといい、石原正明は「かすみたなびく」と言った。しかし現代の研究者の間ではまた違った解釈をしているらしい。

 石田吉貞氏は「この語の響きを第五句まで預かっておくというのは無理がある」とし、「ほのぼのと――三句にかかる。ほんのりと、ほのかの意」としている。そして丸谷才一氏は「春こそ空にきにけらし」と「かすみたなびく」の双方にかかるのではないかという。

 言葉の曖昧性は日本語の特性でもあるが、古典和歌の時代にあっては、なお一層それを利用し、研究を重ねて技巧の極みとしたのである。恐るべし。

 ちなみに藤原定家が書いた「和歌手習口伝」の中には、この「ほのぼのと」を手本とした歌が載っている。


    よこ雲の別かるる空のかすむよりほのぼのと明けて春はきにけり

 そして「おなじことばこころなれども、すこしさまをかへぬれば、くるしからず」と述べている。本歌取りの心得で、これほど解かりやすいものはないかもしれない。「枕草子」の冒頭の名文句との関連性を考えてもいい。

 では次へ進もう。

    見渡せば花ももみじもなかりけり裏の苫屋の空きの夕暮れ

 ご存知、藤原定家の名歌である。だがこれなども、素直にハイ分かりました、とはならない。二種類の読み方が存在するのだ。

 まず「桜ももみじもない、春と秋を代表する美の喪失感を風情として表したもの」ととるか、もう一つは「海辺の夕暮れの寂寥感には桜ももみじも及ばない」とするか、ということである。

 丸谷氏はここでも、一の説の飛鳥井雅章、二の説の金子金治郎、両説とも認めた上で「二重に入り組んだこころを、この三十一文字に託したように思われてならない」としている。

 折口信夫は新古今の歌の散文訳を評して、鶏の羽根をむしったようになると笑ったそうだ。「解釈を一方にしぼり単純化するせいで新古今特有の模糊たる情趣が失われることが大きい」だからそれに気づいて「二様の解釈を立て、しかも彼ら(研究者)の詩学では詩の曖昧性をはっきりと意識できないため、一を取り他を捨てたのであろう」と丸谷氏は言っている(筑摩書房・日本詩人選10「後鳥羽院」)。


    春風にいくへの氷けさ解けて寄せぬにかへる志賀のうら波

 これは続新古今和歌集巻一春上にある後鳥羽院の歌だが、もとは「雲葉和歌集」巻一。

 第二句の「いくへ」は「幾重」と「行方」との掛詞。ここで面白いのは目に見えない情景を歌う詩人としての作業だろう。これも新古今の時代ならではの特性といえるのではないか。

 春風が吹く彼方で幾重もの氷が解けている朝である。琵琶湖の波は寄せないのに帰っていく――見えるはずがないものを歌うのも詩人に課せられた業と言うべきか。
 ここで誰もが認める後鳥羽院の絶唱について考えてみる。

    見渡せば山もと霞む水無瀬川ゆうべは秋と何思ひけむ

             (新古今和歌集巻一春上)

 M音が繰り返されるよどみない効果が何とも心憎い。そして雄大な景色に見入る己と対比するように心の風情が集約される。もちろん古今集にある素性法師の「見渡せば柳桜こきまぜて都ぞ春の錦なりける」が念頭にあったことは想像に難くない。その証拠に、


    深山辺のまつの雪まに見渡せば都は春のけしきなりけり

 という歌がある。つくづく新古今の世界は先達詩人たちへのオマージュというべきか、本歌取りの見本市だ。しかしすべての芸術は模倣から始まるのだし、本歌取りという技法が進歩への橋渡しになるのなら、これほど優雅なテクニックはないだろう。

 ところで、キッチンでは我がまぐろの女房殿が料理している。お鍋はいつも個人的だ。他人が食う分しか作らない。オリジナルの鶴を折りたがる奴は現実逃避にすぎない。車の暴走が止められないのなら、初めからブレーキの壊れた車に乗らなければいい。

 あまりの暑さに考えがまとまらず、こんなシチュエーションばかりが頭に浮かぶ。風評被害には取扱説明書など付いていない。だから気を付けないといけないな。精神病院にでもぶちこまれかねないから。

 栄光ある高校二年生。孫の樹が、テストが終わって帰ってきた。暗い顔をしているので「まるでフィラメントの切れた電球みたいだな。どうしたと聞いたら「今はLEDだぜ。時代錯誤も著しい」だと笑われてしまった。

 テレビを見ていたらカメレオンが緑の木に擬態していた。「ハイブリッドカーより凄いな」と驚いたら、また樹が「パンツを頭からかぶるのはギタイとは言わない。ただのヘンタイなり」と呟いてから「ジイジはギタイできるだけの毛がないしな」。
 毎回言うようだが、私は断じてハゲてはいないし、バーコードでもないぞ。ここに遺言として残しておく。いや血判してもいい(苦渋の決断だが)。


 先日、詩人で銀座の文壇バーの経営者としても朝日新聞に載ったほど有名な山口真理子さんから、小説をいただいた。恩田陸の「蜜蜂と雷鳴」である。「望月さんはクラシックが好きだから」という理由らしいのだ。

 なるほど分厚い小説だったが五日程で読み終え、山口さんがオススメするだけあって久々に面白い小説だった。映画でもそうだが劇中に出てくるいい曲があると家に帰って聴きたくなる性質だから、読了後にやはり聴きたくなった。

 個人的好みで申し訳ないが、CDをかけたらわがマグロの女房どのが「あら、よく聞いた曲ね」という。オリビエ・メシアンの「忘れられた捧げもの」(セルジョ・ボド指揮のパリ管)だった。メシアンには亡くなった山根健一さんが昔フランスで会ってサインしてもらったといっていた。

 私はこのメシアンの「キリストの昇天」(ヴァルター・ストラム指揮のストララム管弦楽団)と、JSバッハの「ロ短調ミサ曲」(もちろん91年のカール・リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団だ。それ以外の演奏は興味がない)、それにアントニオ・ウェーベルンの「パッサカリア」(ピエール・ブーレーズのロンドン交響楽団)を聴くと涙腺が緩むのだ。

 余談になるが「ロ短調ミサ曲」は、ソプラノ=アリア・シュターダー、アルト=ヘルタ・テッパー、テノール=エルンスト・ヘフリガー、バス=ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ、バス=キート・エンゲンと、知る人ぞ知るそうそうたるメンバー。その一人ヘフリガーさんに生前会う機会があってサインしてもらったことがある。

 記者時代に作曲家の團伊玖磨さん、指揮者の岩城宏之さん、小惑星探査で有名になったロケット博士の糸川英夫さんにインタビューしたことと供に今でも光栄だと思っている(思い出したので書いているだけ。決して自慢話ではありません)。

 えらく真面目になってしまった。反省。一度トイレへでも行って出直そう。

 とても匂いに敏感なマグロの女房殿は朝、私の部屋に来ると必ず毎日窓を全開にする。どうやら死臭がするらしい。「私、過敏なのよ」というから「活ける花でも買ってこようか」と言ったら、「カビン違いよ。疲れること言わないで」と怒って出ていってしまった。今夜のおかずはまた一品減らされるに違いない。

 前の号で「神西清全集」のことを書いたが、それで色々なことを思い出した。例えば二十代の頃、一風変わった作家を探して読むことに熱中したことがあった。へそ曲がりな性分なのだ。

「屋根裏出身者」が代表作の十和田操(1900~1978)全集、「精神病理学教室」が出世作の石上玄一郎(1910~2009)全集、詩人としても知られる永山一郎(1934~1964)全集。以上はいずれも冬樹社刊だ。そして「アンドロギュノスの裔(ちすじ)」が有名な渡辺温(1902~1964)全集(薔薇十字社刊)。

 その中でも永山一郎はわずか三十歳で事故死、渡辺温も編集者として谷崎潤一郎に原稿を依頼しにゆく途中で列車に撥ねられ二十八歳で他界したことは有名だ。他にも「命の初夜」の北条民雄や「第七官界彷徨」の尾崎翠などなど。こうした作家や詩人を読んで悦に入っていた若かりし頃を懐かしく思い出す。

 ここでまた場面転換させていただく。肩の力を抜いてお読み下され。間違っても魂を抜いてはなりませぬぞ。


    心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を
          (能因法師、後拾遺集巻一春上)


 これを西行が見事に、秋に仕立て直す。

    津の国の難波の春は夢なれやあしの枯葉に風わたるなり

 すると慈円が挨拶の歌に変えて見せた。


     見せばやな滋賀のからさき麓なるながらの山の春の景色を

 そして後鳥羽院はというと、こうだ。

    心あらむひとのためとや霞むらむ難波のみつの春の曙

 と歌ったが、一見何の細工もないただの盗作のようにさえ見える。だが第五句が終わってはじめて春という時間がぴたりと止まり、第三句の霞を眼前に導き出すのである。身の前にさっと広がる絶景が。ちなみに「みつ」は水のことだが皇居御用達の港「御津」を意味する。

 ここに新古今和歌集における本歌取りの技巧の神髄を見る思いがした。


    霞たち木のめはる雨ふる里の吉野の花もいまや咲くらむ
         (後鳥羽院、続後撰和歌集巻二春歌中)


 これは紀貫之の「霞たちこのめも春の雪降れば花なき里も花ぞ散りける」の本歌取りだ。後鳥羽院は紀貫之が好きだったらしく、たくさん本歌取りを試みている。
「オトーサン電話よ」
 突然地上からマグロの女房殿の声。たちまち現実に引き戻される。重い腰を上げながら、どうせならこんな電話であったらよかったのに、と思う。
「よければ今度の日曜日にドーヴィルまで送りましょうか」
「土曜の昼に電話を下さる?」
「電話番号は?」
「モンマルトル1540」
 フランス映画の名作「男と女」でジャン=ルイ・トランティニアンがアヌーク・エメを誘う場面だ。ご覧になった方は記憶にあるだろう。最近懐かしく思いながら見たが、一度でいいからオイラもこんな粋な会話をしてみたかったと思った。我がマグロの女房殿と、フランスの大女優を比べるのが、そもそもおこがましいのだが(女房殿、許してたもれ)。

 それにしても新古今の時代の優雅さは、便利さばかり追求した挙句原子炉を爆発させたり、地球の体温を上げて気候変動を起こさせるような、無粋な文明の発達とともにどこかに置き忘れてしまったようだ。
 その地球温暖化のせいか、ゴキブリにもGWがあるらしい。連休に入ったら子連れでゾロゾロ出て来やがった。観光地はもちろんキッチン。たちまち起こる娘と孫の断末魔の悲鳴。たまらん。地球最後の日は近いぞ。


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738


イラスト:Googleイラスト・フリーより

三十年ぶりの墓参り = 黒木 せいこ 

 私は今年、還暦を迎えた。

 学校の同級生たちは、卒業後、進学、就職や結婚のため、地元を離れた人が多い。これまで同窓会は、各地域で行われていた。皆が還暦を迎える今年は、熊本で高校の同級生が一同に集まり、盛大に開催することになり、半年も前から案内状が届いていた。

 卒業後、一度も会っていない人にも会えるかもしれない。私は懐かしくなり、出席することにした。
 同窓会の二か月ほど前のある日、高校卒業後もずっと親しくしていた同級生のオタカ(高本さん)から、
「今日はヒロミの誕生日じゃなかった? 生きていればヒロミも60歳になるんだね」
と、メールが来た。

 ヒロミは、26歳の若さで亡くなった。私とヒロミは、中学と高校が一緒で、とても仲良しだった。
 彼女は、テニス部で活躍する、とてもチャーミングな女の子だった。ショートカットで、日焼けした健康的な笑顔が魅力的で、男子生徒からも人気があった。

 そんなヒロミが、大学生になって突如として「膠原病」になって入院した。病気について詳しくは聞かなかったが、手術などはせず、投薬治療をしていた。

 入院生活は長期に及んだ。私は、大学卒業後も地元で就職していたので、何度もお見舞いに行った。病室では、ヒロミはいつも元気そうに話していたが、薬の副作用で顔がむくみ、体のあちこちに黒いあざができているのが、痛々しかった。

 それでも、私の結婚式には出席したいと、入院中にも関わらず、わざわざ宮崎県まで足を運んでくれた。参列した彼女の元気そうな顔を見て、体調はいいのだとばかり思っていた。


 それが、結婚式の二か月後、突然ヒロミが亡くなったと知らせが届いた。私は言葉を失った。元気そうに見えたのに、実は体調が悪かったのだろうか。
 結婚後、私は埼玉県に住んでおり、切迫流産で絶対安静の状態だったので、葬儀に出席することさえできなかった。
 私の結婚式に出て、無理したのがいけなかったのでは? そんな後悔で、胸がいっぱいになった。
 その後、私は無事に出産し、数年たって、友人たちと数人でヒロミのお墓参りに行って、その足でご自宅を訪ねた。
 ヒロミのお母さんが、
「娘は、結婚式に出られたことを、本当に喜んでいました」
 と、笑顔で話してくれた。

 仏壇に手を合わせると、そこには、微笑んでいるヒロミの写真があった。それは、私の結婚式に出席した時のものだった。
 私は、重い胸のつかえが少しおりたような気がした。


 あれから三十年がたった。ヒロミが亡くなった6月になると、季節の変わり目のせいか、私は体調を崩すことがあった。そのたびにヒロミを思い出した。

 この間に、たまに帰省したおり、学友たちとの会話の中でも、ヒロミはよく登場した。
「あのころは、何でもないことでもよく笑ったね」
「ヒロミはなぜか、前川清が好きだったよね」
 笑い話として出て来ることが多かったが、そのたびに、若くして亡くなったヒロミのことを思うと、胸がチクリと痛んだ。
 だが、あれ以来、墓参りには行っていない。今回、同窓会で集まるのをきっかけに、皆で墓参に行こうと、オタカが提案した。私も、もちろん賛成した。


 同窓会の当日、少し早めに集まった5人で車に乗り、墓に向かった。ヒロミの実家は、熊本市の中心部から車で30分ほどの所にある。町の様子は以前とそれほど変わりなく、墓地の場所はすぐにわかった。
 だが、新しい墓がずいぶん増えて、ヒロミの墓がどこにあったか、誰も思い出せない。

 その地域には、同じ苗字の家が多く、全部で200ほどもある墓の7割くらいはヒロミと同じ『斉藤家の墓』である。

 墓石の横に書かれている墓標を、5人は手分けして一つひとつ見て回ったが、ヒロミの名前はどこにもない。
「真ん中あたりだったと思う」
「いや、一番左奥の列だったような気がする」
 皆の記憶も曖昧だ。私など、どこにあったか、まるで覚えていない。

 近くにあったヒロミの実家に行ってみたが、そこはすでに更地になっていた。もうご両親も亡くなったのだろうか。ご両親や、お兄さんの名前もわからない。

 わかりそうな同級生に携帯で連絡してみたが、誰もはっきりした場所は覚えていなかった。昨年の熊本地震で、墓石が倒れ、土台しかない墓がいくつかあった。その中の一つなのかもしれない。5人で知恵を絞ったが、ついにどれがヒロミの墓かわからなかった。

 気が付けば、探し始めてから2時間近くたっていた。肌に当たる風が急に冷たく感じられた。ここまで来て、結局墓前でヒロミにお参りもできずに帰るのかと思うと、情けなかった。
「何してるんだろうね、私たち。誰も覚えていないとはね」
「三十年もたったから、仕方ないよ」
「ヒロミもきっとお墓の下で笑ってるよ」
 私たちは、お互いに苦笑いした。
 

 持参した墓花は、個人の物ではない「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな墓に供え、線香は、それぞれが勘で、ここぞと思う墓前に置くことにした。
 私は、ヒロミが好きだったスヌーピーのコップが置いてある墓に置くことにした。だが、
「それは違うわよ。苗字が『斉藤』じゃなくて『斎藤』でしょう」
 と一人の同級生に言われ、あわてて別の墓にした。
「ヒロミ、見つけられなくてごめんね」
 私は、心の中でつぶやいた。

 予定よりずいぶん長く墓にいて、同窓会の始まる時間が迫ってきたので、私たち5人は、やむなく墓地を後にした。 

 ヒロミ、私、もう少し生きてみるね、あなたの分も。

   文・写真=黒木 せいこ
          イラスト=Googleイラスト・フリーより

採掘されつづける武甲山(1304m)=武部実 

平成23年10月24日(月) 小雨のち曇り

参加メンバー:L関本誠一、佐治ひろみ、大久保多世子、武部実

コース:西武秩父駅 タクシー~一の鳥居~表参道~山頂(昼食)~長者屋敷の頭~橋立鍾乳洞~浦山口駅~お花畑駅~西武秩父駅          


 初めは22日(土)に計画したが、雨天のために延期となっていた。本日・24日(月)に西武秩父駅に9時に集合した。タクシーで、一ノ鳥居までは20分弱で、到着する。(2600円)。

 9:30に出発。小雨だったが、歩き始めて10分位で雨は止み、気温は高め、上着を脱いでTシャツ一枚の仲間もいた。

 杉木立の山道を一丁目(石柱に表示)から、歩きはじめて20分ほどで十丁目だった。「もう頂上?」違うんですね。
 この丁目は、約109mの距離をあらわしているものだった。頂上までは五十二丁、まだまだ先だ。

 十八丁目の不動の滝には、水飲み場があった。約半分の二十六丁目で軽く休憩をとる。すこし歩いたところで、海抜1000mの大杉に到着した。(10:50)。

 われわれ4人が手をつないで大杉の幹回りは丁度だから、優に6mはありそうだ。

 11:40、五十二丁目の御嶽神社に到着する。ここから少し登ったところが、展望台である。残念ながら、きょうは霧の中で、採掘現場や羊が丘、そして秩父の街並みはまったく見えない。

 武甲山1304mの標識の下には、三角点(?)があり、そこには1336-41+9と表示してある。たしかに計算すれば、1304mになるが、プラス・マイナス の意味は不明である。

 昼食を摂って出発の準備をしている時に、サイレンと発破の音がひびく。頂上は震度2位の揺れがきた。毎日、定時に発破するらしいのだ。

 12:40に出発した。一時間ほど下ると、渓流沿いの道になり、少しあるくと、林道にでる。この林道には落ち葉に混ざって、クルミの実がたくさん落ちていた。さらに、ねこじゃらしによく似たチカラシバが道の両側に群生している。この先を歩けば、橋立鍾乳洞はすぐそばだ。
 ここから20分で、浦山口駅に15:10に到着した。

 予定より早く着いたので、15:23発の電車に乗ることができた。

 お花畑駅から西武秩父駅まで歩き、時刻表を見たら、ちょうど普通列車15:37発の飯能行きの電車があった。それに間に合い、飯能から急行電車に乗り換え池袋駅には17:30頃に到着する。
 池袋では軽く反省会を行い帰途につく。

 今回は3年ぶりだったが、あらためて感じたのは、奥多摩の山々とちがって急登がなく、歩きやすく、変化に富んだ山った。
 石灰の採掘によって何年後かには、山が無くなるか、あるいはもっと無残な姿にされるおそれがあるので、皆さんも今のうちに登ってみてはいかがですか。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№147から転載

モンブラン初登頂者の謎=上村信太郎

 スポーツ登山の発祥は、スイスの科学者オーラス・ベネディクト・ド・ソシュールのモンブラン(標高4807m)登山とされる。

 それ以前は「高山の山頂に立つという目的」での登山行為ではなかった。また高山の氷河の上でビバークすると生きて帰れないという迷信もはびこっていた。

 ジュネーブ生まれのソシュールは、幼年時代から博物学に興味を持ち山々を歩き回るのが好きだった。
 20歳のときに植物採集を目的に初めてシャモニーを訪れ、ブレヴァンの展望台からシャモニーの谷越しにモンブランを眺めた。
 このとき、当時は登頂不可能とされていたアルプスの最高峰モンブランに登ろうと固く決心して名案を思い付く。モンブランに登頂できるルートを発見した者には、だれでも多額の報奨金を支払うと発表した。時に1760年7月24日であった。

 それ以後、ソシュール自身も含めた多くの真剣な試登が繰り返されたがいずれも失敗。ようやく初登頂されたのは27年後であった。
 1786年8月7日、シャモニーの医師ミシェル・ガブリエル・パカールと、24歳の水晶採りジャック・バルマの二人がボソン氷河からモンブラン登頂目指して出発。彼らはル・モンという村で落ち合い、その日は氷河の手前でビバーク。
 翌朝4時半に出発し、午後6時32分にモンブランの絶頂に立った。パカールは山頂で高度や気温を観測。19時前に下降を開始。真夜中に出発地点まで下降してビバーク。二人は2400m以上の標高差を一日でピストンしたことになる。
 翌朝、雪目になり両手が凍傷になったパカールはバルマに導かれて下山し、帰宅したバルマは重病だった乳幼児の娘が入山中に亡くなったことを知った。


 下山後、バルマはソシュールを訪ねて報奨金を受け取った。
 その翌年8月、ソシュールは一人の召使とバルマの他に、食料や科学実験用器具などを担ぐ18人のガイドとポーターを引き連れてモンブランに挑み、ソシュール夫人が麓から望遠鏡で見守るなか登頂に成功。
 このソシュールらによる一連の登山行為が「スポーツ登山」を誕生させ、やがて明治期にイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンによって日本にも紹介され、やがて今日の「百名山ブーム」に至ったとされている。

 モンブラン登頂から1ヶ月後、町ではある噂が広がった。「パカールは途中で疲労して落伍した。バルマが一人で登頂した」というもの。この噂は結果的にバルマを英雄に仕立ててしまった。
 1841年、79歳になったバルマは、文豪アレキサンドル・デュマの取材を受けて「パカールは途中で何度ももう歩けないと言ったが無理やり引上げた」などと答えた。
 だがその後、ドイツの科学者ゲルスドルフがたまたまシャモニー滞在中にモンブラン初登頂の様子を望遠鏡で目撃したときの日記とスケッチが発見され、それによれば「彼らはしばしば先頭を代えて進み、6時32分に絶頂に登った」と記されていて、デュマの記述と正反対の内容であった。

 そして、初登頂からじつに143年後になって、パカール本人が書き遺した手記が発見され真相が判明して『アルパイン・ジャーナル』に掲載された。それには、「荷物を分担しょうとバルマの他に案内人を連れていこうとしたが、報奨金を独占したいバルマが断った。私たちはほとんど同時に山頂に着いた。」と記されていた。

 今、シャモニーの町の中心地に二つの銅像が建つ。ソシュールと一緒に並び立ってモンブランの方向を指さしているバルマの像と、もう一つはパカール一人が座っている像でパカールが名誉を回復してから新しく建てられたものだ。
 それにしてもバルマはなぜパートナーを生涯中傷し続け、パカールもどうして自らの山行記を最後まで発表しなかったのであろうか…。永遠の謎である。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№216から転載

  
 
  


 

シモバシラ観察会=市田淳子

日 時 : 2016年12月29日(木)高尾山口駅9:00集合

メンバー:L栃金・市田 上村、武部、岩淵、中野、開田

コース:稲荷山コース~高尾山頂 11:15~シモバシラ観察 11:30~一丁平 12:15<昼食>~城山 13:10~西尾根コース~相模湖駅着15:15


 シモバシラ観察会を計画したものの、気温が高すぎてシモバシラが期待できないかもしれないという不安があり、稲荷山コースを歩きながら、もう一つの観察会を行うことにした。

 登山の愉しみは、その山の自然を知ること。高尾山は599mという低い山なのに、なぜ登山客を魅了するのか。一言で言ったら、日本で一番小さな国定公園なのに、生物多様性が考えられないほど豊かだということだ。

 高尾山はケーブルのラインの辺りで西の植物と東の植物が出会う。

 さらに沢があることで渓谷林、針葉樹林がある。植物種が豊かということは、昆虫、鳥類等も豊かになる。
 歩き出す前に、稲荷山コースに多い樹種の葉を見てもらい、それぞれの特徴を思うまま述べてもらった。1種類だけは覚えて帰ろう!という同定の目標を持って歩くことにした。

 同じカシでも葉っぱの形、鋸歯(ギザギザ)の様子が違う「シラカシ」「アラカシ」。ドングリを実らせる落葉樹の「コナラ」。鋸歯に特徴があり、薄くて壊れやすい「イヌシデ」この4種は、都内の公園や雑木林にもたくさん生えている。
 そしてもう1種は「イヌブナ」鋸歯の伸び方が超特徴的! 稲荷山コースを歩くと、南側の斜面に照葉樹であるシラカシやアラカシが目立つ。

 その中にコナラ、イヌシデが混じる。そして、なかなか現れなかったイヌブナはかなり上の方に登ると出会うことができた。植物はちゃんと自分の棲む場所を心得ている、というより適した場所で長い時間をかけて進化してきたのだ。
 こんな目を持って高尾山を歩くのもたまには良いものだ。



 さて、肝心のシモバシラ、貧弱ではあるが、何とか私たちの期待に応えてくれた。暖かい日が続いたが、この日の朝は冷え込んだため凍ったのだ。

 枯れた植物の茎から形成される氷の芸術。これを見ずに春を迎えることはできない。自然は人間と比べることができないほどの才能溢れる芸術家だ。

 しかし、この芸術家も温暖化には勝てない。10年ほど前は、「誰がトイレットペーパーをこんなに落としたんだろう?」と思うほど「氷の花」だらけだったのに。そうは言っても、今冬もシモバシラを見ることができた。来冬も変わらず見られますように。

 高尾山頂では顔を見せなかった富士山も一丁平辺りから綺麗に見えてきた。
 ポカポカ陽気の中、ほぼ予定通り相模湖駅に到着。楽しい一年の締めくくりの山行だった。(森林インストラクター)

        ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

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