寄稿・みんなの作品

積雪期の魅力・奥多摩・御岳山(929m)=武部実

登山日: 平成30年1月28日(日) 

参加メンバー : L上村信太郎、武部実、大久保多世子、中野清子、佐藤京子、開田守の計6人

コース : 滝本~ビジターセンター ~ 御岳山 ~ 奥ノ院(1077m) ~ ケーブルカーで滝本


         奥ノ院への急登

【山行】

 10:00に滝本を出発する。ケーブルカーは使わず、樹齢が数百年の杉並木の大木が両側に鬱蒼(うっそう)と繁っている道を歩く。

 御嶽神社の参道だが、今日は寒いせいか、登山客や観光客も少なく、われわれ以外は数人しか歩いていなかった。参道は、山に住んでいる人たちの生活道路でもあり、舗装してあるので山登りという雰囲気はあまり無い。

 1時間10分ほどでビジターセンターに着く。休憩を兼ねて久々に中を覗く。職員に尋ねると、最近は外国人観光客が増えて対応が大変らしい。
 そういえば、パンフレット類も英語表記が多いようだ。私は、少しでも名前を覚えようと、鳥と花のパンフを貰う。これからの山登りに活かせたらいいのだけれど。


 御嶽神社に着いて目に付いたのは、イヌ年に関係あるのか、犬にご利益があるのか、それは知らないが、犬連れが多かったことだ。

 ペットブームだそうだが、ここにもその影響がおよんでいるのですね。神社の奥に御嶽山の山頂の石碑があり、ここが正真正銘の925m地点である。
 石段を登った正面にある拝殿だけで満足せずに、必ずここまで行くべし。


 12:40、奥ノ院に向けて出発。10分ほどで、ロックガーデン等の分岐の長尾平に着く。ここに登山家・長谷川恒男の顕彰碑が設置されてあった。
 大きな石に長谷川恒男の字、石碑にアルプス三大北壁単独登攀などの略歴が彫られてあった。2011年に没後20周年を記念して建立されたものだ。

 奥ノ院の登山口にあたるところの鳥居をくぐり、少し先の浄水場あたりから雪が積もっている山道となり、アイゼンを装着する。
 初アイゼンの人もいて少し手間取ったが、全員が揃って出発する。急登は無く緩やかな登りは快適だ。われわれの他に登山客は、数人のみの静かな登りであった。途中、一か所クサリ場があるが、慎重に歩けば危険なところではない。

 14:10奥ノ院の祠が設置してある所に着いた。ここから山頂までは5分ほどだが、見通しはあまり無い。大岳山や西方向が少し見えるくらいだ。
 登った道を下り、ケーブルカーの御岳山駅に着いた。(15:40)、丁度タイミングよく発車寸前に飛び乗ることが出来た。

 一週間前に降った雪がまだまだ残っていて、アイゼンの練習には程よい積雪であり、楽しく登れて良かったと思う。やはり、この時期にはアイゼンは必携だ。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№221から転載

「和キルトX百段階段2018コンクール」で、黒木せいこさんが審査員賞を受賞

 2018年5月15日から、東京・目黒区のホテル雅叙園東京で、「和キルトX百段階段2018」が開催される。
 同コンクール「衣桁に掛ける和のキルト 和-モダン」の表彰式が、同日15時から雅叙園アンコタワー内「アルコ・ザ・ガーデン」で開催された。主催は公益財団法人・日本手芸普及協会で、投稿作品59点のなかから33点が選ばれた。 

 金賞はファションデザイナーの大澤恵美子さん(群馬・桐生市)で、作品は「蒔絵と回路」である。「子供のころから機織り機が聞こえる町に育った。いま、退職後、手間を省かず、時間を節約せず、思い切った作品をつくりかった」と受賞のことばを述べた。

 朝日カルチャーセンター千葉の「フォトエッセイ教室」の受講生・黒木せいこさんが、みごと審査員賞・岡本洋子賞を受賞した。


 審査委員の岡本洋子さんは、黒木さんの「夢まぼろし」について、
「白と紫の配色とコントラストが素晴らしかったです。6角形のヘキサゴンで構成されて、今回のコンクールのテーマ『モダン』にも、すばらしく上手にマッチしていましたので、選ばしてもらいました」
 と選評を語ってくれた。

 黒木さんは受賞の喜びとして、
「キルトの指導講師のもとから離れて、独りで制作に専念する道を選びました。それだけに、ひとりで制作する緊張感もありました。ただ、やり直し、手直し、という面がなく、3か月の短期間で仕上げることができました。ともかく、一人で作って受賞できたので、とてもうれしいです」と語った。

 紫の変化をたのしむ作品として、『夢まぼろし』のイメージ通りに、出来ましたと語った。

 自信作ですが、完成度は80%です。次作に対しても、粗材はたくさん持っていますから、と意欲的に語っていた。


【用語説明】

 衣桁(いこう)とは、和服をかけておく道具。衝立(ついたて)しきと屏風(びょうぶ)しきがある。

春末峡 第3章 黒淵を継ぐもの = 広島hiro子

 黒淵にたどり着いた。
 いつの間にか白くしぶきを立てる水音が途切れ、双璧に囲まれた黒淵の静けさが、また別世界を思わせる。舟付き場から先に見える水面は、風にそよぐほどの小さな波があるだけで、その色は深い碧色をたたえていた。垂直に伸びた岩壁が見上げるほど高く陽をさえぎり、なおさら深淵さをただよわせていた。

 ここは観光案内の紙面を飾る名所のひとつだ。川を行く渡舟と、山道を辿る登山道がある。舟は例年なら4月終わりでなければ運行していなかったが、今年は半ばからはじまっていた。智子と後藤信弘の二人は迷わず、登山道ではなく渡舟を選んだ。

「黒淵」の文字を入れた青Tシャツの若い舟頭が、片道か往復かを尋ねた。片道300円で、往復は500円だという。智子が山道もあるからと片道と言おうとすると、信弘が智子の肘を軽く抑えた。智子が言葉を失くしたすきに、ズボン内ポケットから素早く舟頭にお札を手渡した。
「往復。ふたりで1000円だね」


 平たい舟に先頭と後部に分かれ、前に中年の男性と、後ろに智子たち、舟頭が乗り込んだ。板だけを数枚左右に張った舟椅子の後部に信弘が座ると
「帰りはきっと疲れてるから。こうやって舟で座っていれば、一休みにもなる」
 と、小さくつぶやいた。
 智子は何も帰りまで同じ景色をみなくてもいい、と言おうとしていたが、なるほど運動不足とストレスとで疲労気味の智子にはちょうど良かった。運動用の靴を履いてこなかった智子には、なおのことありがたかった。
「気を使ってくれてるのね。なんだか昔より優しくなったみたいね」
「いや、そんなもんじゃないよ」
 彼は照れているのだろうか、だんだんと深くなっていく水底をじっとみつめた。

 若い舟頭は、5メートルほどの竹竿を水底に押し付けながら、ゆっくりと川上へ向かう。エンジンのような器具は何もなく、竹竿のみで舟を渡していた。
 先頭にひとり座る男性は、作業着の身なりからして少なくとも観光客ではないらしい。どうやらこの地の人のようだ。20代に見える舟頭さんは智子たち二人に、風景の説明を始めた。
「雪解けの水も含まれていて、この時期でも冷たい水の流れとなっています。
 水底に敷き詰められた丸石が透けて見え、浅いように感じらえますが、これでも3.4メートルの深さです。石の表面に小さな巻貝があるのがおわかりですか。これが蛍のエサとなるカワニナです。7月半ばには、夜の景色を薄明るくするほど蛍の群れで・・・・・・すぐ先は深さ5メートルになります。この切り立った崖に……」
 と慣れた口調で、渓谷美を伝えてくれた。

「なんだか貸し切りみたいね。申し訳ないみたい」
 智子の独り言のような問いに、舟頭が答えた。
「今年はちょうど数日まえから再開したばかりです。年によって変えたりするので、最初はお客さんは少ないです。ゴールデンウィークでなくて良かったですよ。それに秋なら、もっと並んで待つようになります」
「まあほんとに? ちょうどよかった。こんなにゆったり満喫出来て。運が良かったのね、私たち。いったい誰の運かしら」
 21歳で後藤と新婚旅行に行ったことを、ふと思い出した。別れて25年もたったのに、まるでつい数日前にも思える。
「運がいいのが僕ならいいけど、それはきっと、トモのほうだよ。君は自分では判かってないだろうね。君がものすごく強運の持ち主だってこと」
 後藤はまるで自分のことのように嬉しげに笑った。 

 舟は、いちばん深いあたりをゆっくりと漂う。もう少しで岩壁に根をはった山すみれに手が届きそうになった。見上げると、岩苔をたくわえた岩壁は天高く続き、その先さえ見えない。智子は幽玄な自然美に浸りながら、後藤の言葉をおぼろげに聞いた。
(私、運なんて強くないと思うけど・・・あれ? トモって今日、初めて言った?・・・・・・なんだか、昔行った新婚旅行みたい・・・)
 涼やかな波に揺られ、ゆったりとした時に流される。

 知らぬ間に、智子の数日前の仕事の悩みは、どこかに消えてしまっていた。

「その昔は水底が見えないくらい深く、黒く見えたので、黒淵という名前が付いた、というのがここの由来です」

 確かに水の色は緑碧色にみえるが、黒淵という名前のように黒とまでは言い難い。真下をのぞくと、しっかりと水底の石の形や模様まで見えた。
「石が丸いね。山道に転がってたのは、みんな角張ったのに」
 智子が独り言のようにつぶやくと、若い船頭は聞きもらさず答えた。
「この渓谷の強い流れが岩をまるく研磨するんです」
「え?ここは流れが少ししかないのに?」
「船底に見える丸石は、集中豪雨があるたびに、上流から流れて溜まったものです。聖湖のダムの建設で出た石や、岩雪崩で積もった石が集中豪雨で、徐々に黒淵の底に積もるんです。ここまでの話しは、あまりお客様にしないんですけれど……、今は流れてくる石に黒淵が埋められないように格闘してますよ」
「どうやって? 流れ込んでくる石は積もる一方だろう? ダムによらず、最近の豪雨も昔よりひどくなってきているし」
 後藤が身を乗り出した。
「以前より確かに浅くなってきてますね、黒淵は。昔は11メートル以上の深さがありましたから。だから時折り石を掻き出して、下流に押し流すんです。ひどい時には黒淵の底の石が水上につもり上がってきたこともありますよ」
「たいへんそう。自然の美しさもずっと同じじゃないものね。ここを守るのにも大変なことはあるのね?」
「そうです。ここは渓谷で、海に近いような幅広い川ではないので、集中豪雨の時はひどいことになります。石が流されるだけでなく、10メートルほど水かさが上がってくる時があるんです。あそこに見える茶屋のすぐ下まで、水が渦巻いてました」
 ふたりは唾をのんだ。この黒淵を10メートルもかさ上げする水量とはどのくらいのものだろう・・・
「津波みたいだね。家まで持っていかれそうじゃないか。怖いな……」
 静かな時には幽玄なたたずまいを見せながら、やはり自然の力は計り知れないものなのだ。
「ええ、実際、昭和63年には、あの茶屋の一階の丈半分が水に浸かりました。サッシも、押し入れも布団も何もかも流していったそうです。茶屋は辛うじて残りましたけど」
「うう……ん、恐ろしい。人なんてあっという間に飲み込まれそう。でも、あの建物もよく流されなかったけど、茶屋の目の前の大木も、良く流されなかったわね。あれば何の木?」

 茶屋よりも1から-2階分ほど下にある一本の大木は、ゆうに20メートルの高さがあった。63年の豪雨では、ちょうど川の中央で、踏ん張っていたことになる。20年近く前なら、木の先端近くまで豪水にまみれていたにちがいない。今では遠くから見ても堂々とした大木だが、新芽が吹き始めたところで、それが何の木の葉なのか、見極めることができない。
「あれば、ケヤキの木です。もう50年以上になります。僕がちょうどその半分の齢ですね。良く流されずにいるって、母がいつも言ってます。母がここに嫁に来た時は、まだ腕くらいの大きさだったそうです」
 智子は背筋の寒気を払いながら、話をつないだ。
「あ、お若いからアルバイトさんかと思っていたけど、こちらの息子さんな
んだ?」
「はいそうです。今は僕がここをやってます。よくいわれますよ。アルバイトかって」
 20代半ばという青年は、さわやかな笑顔で返してきた。

「小さい時から、ここを手伝ってます。祖母の代からずっとです。これからも僕がここを繋いでいきます。外国人のお客様も増えてきてますし。母では対応しきれないですからね」
そう言えば、あらかじめ見てきたHPに、フランスのミシェランで三ツ星をとったと紹介されていた。やはりネットの威力はものすごく、急に異国の観光客が増えたのだと、若い経営者は話してくれた。
 飾り気のない素朴な舟渡しの旅は、またたくまに間に終えた。青年は別の客をのせて、今度は舟を下った。
 青年は過酷な自然と、立ち替わる様々な客の対応に相対する。その背中は、黒淵を担い、心なしか頼もしく見えた。
 ケヤキの木は、もう流されることはないであろう。そして、この黒淵に深く根付いていくのだろう。

「ひとと自然か……。今日はいいもの見せてもらったな。来てよかっただろう」後藤は満足げだった。
 智子は黙ってうなずいた。

(おとといまで、仕事でがんじがらめになっていた私をここまで解放してくれた。それはこの深い自然の力なんだわ。ここに住む人も木も草も、生き物たちもすべて。そして、あなたのお陰でもあるのよ。でも、あなたにとって、これが目的ではないはずなのだけど・・・本当は観光旅行のつもりではないでしょう?あなたの言葉を聞かせて、ヒロさん)

 ふたりはそれぞれの感慨をもって、黒淵を後にした。

                       【つづき】

なぜだろう  =  林 荘八郎

 冬はカキが美味しい。わたしの好みは伊勢のものだ。そこで養殖している漁師に電話で注文する。年に2、3回取り寄せる。もう20年くらい続いている。
「横浜のハヤシですが」
 それだけ名乗ると、わたしの長ったらしいフルネームをわざわざ発して確認してくる。なぜだろうと思う。

 それが漁師本人でも奥さんでも、若夫婦であっても、電話をとった人はフルネームで念を押す。悪い気はしない。自分も上客に列せられているのだろうか。しかし、なぜだろうと思っていた。

 この冬、30年ぶりに伊勢神宮に詣でた。くだんの漁師は民宿を営んでいる。その機会に宿泊することにした。


 鳥羽から先の英虞湾の景色は美しい。多くの小さな島が浮かぶ静かな景色だ。入り江は波が立たず池のように穏やかだ。岸辺は驚くほど透き通っている。緑豊かな国立公園だ。開発を規制しているのだろう。
 的矢の隣の浦村の浜に着く。

 宿の前には小舟の発着用の桟橋が浮かぶ。そこから舟は沖の養殖用筏へカキを挙げに行き来している。30分ほどで戻り、小屋に運び込む。5、6人で泥にまみれて掃除している。この泥だらけの貝が、あの美しいカキになるのかと驚く。


 その民宿は母に教えてもらった。彼女は伊勢の実家で晩年を独り住まいしていた。女学校時代の幼友達に誘われて、あるとき泊った民宿での料理が素晴らしかったらしい。
 わたしが家族を連れて母を訪ねたら、その民宿へ案内したいと言ってくれた。わたしたちは喜んで同行し料理を堪能した。しかし母はそのとき不満だった。

 彼女にとっては友達と来たときのような内容でなかったらしい。食事が終わるまで、おかしい、おかしいと呟いていた。
 
 その時、隣の部屋にいる5、6人の若い女性グループの歓声が聞こえてきた。
「あんな予算でこんなすごい料理が出るなんて。この宿は最高ネ」
 わたしは直感で、配膳係が船盛り料理を運ぶ部屋を間違えたのだと思った。

 母は、その歓声には気が付かず「特別料理を注文したのに」と納得がいかない表情を続けていた。
彼女は、我々の歓声こそ聞きたかったのだ。


 帰りの車中でも嘆いていた。あんなにもしょげた表情を見せるのは珍しかった。母の思い出を家族と話すときには、今もこのときの話が出る。

 今回の宿は、実はその民宿なのだ。30年前のあの出来事は内緒にして、泊るのは初めてのように、わたしは振舞った。

 緑豊かな志摩半島に囲まれて、この入り江はカキの養殖には最高の立地だと若主人が言う。その夜の料理に満足し、そっと心の中で母に報告した。

 電話で注文すると私のフルネームを復唱するのはなぜか。刀を差した侍のような名前がオモシロイのか。理由は他愛もないので、いささかがっかりした。
「注文をいただく東の端のお客様は、昔は沼津の方でした。その後、永いあいだハヤシさんがいちばん東の端の、わが家では大事なお客さまだったのです。いまではもっと東のお客さまも増えましたが」

波の伊八 =  廣川 登志男

 アメリカのライフ誌が1999年に掲載した、「過去千年の世界の文明に最も影響を与えた偉大な人物百人」の記事がある。
 科学(31)、政治(19)、芸術(14)、思想(10)、その他(26)であり、そのなかで、日本人はただ一人。ダ・ヴィンチ、ベートーヴェンなどと並び、芸術(14)の中に、「葛飾北斎」の名がある。

 北斎は、優れた芸術家として世界的に高く評価されている。彼の作品の中では、とくに「神奈川沖浪裏(なみうら)」が有名だ。確かにその通りなのだろう。だが、房総の人間である私としては、若干気に食わないところがある。


 昨年11月中旬、東京都美術館で開催された「ゴッホ展―巡りゆく日本の夢」に足を運んだ。ゴッホ中心ではあったが、浮世絵や北斎の富岳三十六景なども展示されていた。とりわけ、北斎の「神奈川沖浪裏」は別格で、豪壮な大波が、まさに崩れ落ちる一瞬を切り取った、素晴らしいものだ。

「動」の一瞬を切り取った絵画はそれまで存在せず、ゴッホはもとより、カミーユ・クローデルの彫刻作品「波」、それに作曲家ドビュッシーの交響詩『海(ラ・メール)』の着想など、西洋芸術の多くのジャンルに多大な影響を与えた、と紹介されていた。

 
 房総鴨川の一角に、「波の伊八 生誕の地」の碑が建っている。
「波の伊八」とは、武志伊八郎伸由(たけしいはちろうのぶよし)のことで、1752年(宝暦2年)に生まれている。

 小さい頃から手先が器用だったので、彫刻師の弟子となった。そこで腕を磨き、安房・上総をはじめ、江戸や相模など、南関東を中心に百ヵ所近くの寺社に彫刻を残している。
 得意な作品は、「波」と「龍」だ。特に「波」の彫刻は当代一との誉れ高く、上方の彫師たちの間では「関東に行ったら波だけは彫るな。彫ったら笑われる」といわれていた。


 彼の欄間彫刻作品は、鴨川や夷隅周辺の寺に多く残っている。私が最初に見たのは、八年ほど前の鴨川の鏡忍寺。伊八の墓もそこにある。南房総市の石堂寺も有名だ。
 これらの寺院はほとんどが名刹で、火災等で縮小はしているものの、大寺院であった面影を今も残している。

 いすみ市にある行元寺(ぎょうがんじ)には三年ほど前に行った。ここにも、伊八の手による欄間彫刻「波と宝珠」が現存する。寺の坊さんから説明を受けた。

「表から見ると、右から左に打ち寄せる大波の波頭が、まさに崩れんとする一瞬を切り取っています。これを、裏から見ると、北斎の「神奈川沖浪裏」と同じ構図になるのです。よーく、ご覧になってください」
 この「一瞬の切り取り」が、北斎に「神奈川沖浪裏」の構図を創造させたのだという。私自身、にわかには信じられないほど驚いたことを覚えている。帰宅後、インターネットで伊八の勉強を続けた。

 行元寺の彫刻を制作したのは伊八58歳のときで、北斎は50歳だった。「神奈川沖浪裏」を含む冨嶽三十六景の製作より20年ほど前のことになる。

 北斎は房総によく来ていて、打ち寄せる波のスケッチが多く残っている。しかし、それらは正面から描いた平凡なもので、「神奈川沖浪裏」のような、波を横から切り取ったものでも、波頭の「一瞬の崩落」を描くものでもなかった。

 どのようにして、北斎が伊八の作品を知りえたのか?

 当時、雪舟十三世を名乗っていた有名な浮世絵師「三代堤等琳(つつみとうりん)」が、多くの弟子とともに活躍していた。
 いすみ市の太東﨑(たいとうさき)断崖上に飯縄寺(いずなでら)がある。本堂外陣欄間には、伊八五十四歳の作品「波と飛龍」があり、その内陣天井には、堤等琳自身が来て描いた「龍や花鳥図」五十数点が飾られている。また、さきほどの行元寺では、等琳の弟子のひとり等随(とうずい)が襖絵を担当していた。

 伊八は、等琳一派と、多くの寺で一緒に仕事をしていたのだ。

 北斎も等琳の弟子だった。彼は、師の愛弟子でもあり、その影響を最も受けた弟子だった。したがって、北斎は、等琳一派が一緒に仕事をしていた伊八の話も聞いていたことだろう。
 尊敬する師の仕事を見んと房総を巡るときに、伊八の作品もみたいと思っていたに違いない。こうして、北斎と伊八が結びついたと、歴史書は述べている。

 伊八の「波と宝珠」が波の一瞬を切り取っているのに間違いはないが、それを「神奈川沖浪裏」にまで昇華させたのは、さすがに北斎なのだろう。

しかし、世界的に有名な「北斎」に、天啓と呼べるほどの衝撃を与えた一人の「彫師」、片田舎に生まれた手先の器用な一人の「彫師」、が房総にいたことも事実だ。

 これらを知ったことで、「神奈川沖浪裏」を見る目が変わっていった。


  葛飾北斎作「富嶽三十六景」の小型画像を著作権フリーより

葉の裏に隠れた小さな青虫 =  月川 りき江

 数年前、兄から我が家のお墓が佐賀県にあるので、長崎に移したいとの話しがあった。
 兄は全盲で兄嫁が車の運転をしているので、歳とともに佐賀まで行くのが辛くなったと言う。私達姉妹は一も二もなく賛成した。それからほどなくして、6名で佐賀のお寺へ行くことになった。

 男性2名、女性4名。

 お寺の話し合いは午後になっていたので、佐賀に着いてすぐにお昼ご飯を食べることにした。一般的な小料理屋さんで、個室があった。

 食事が運ばれて食べようとする時、兄嫁がこそこそと兄に話しをしている。
「どうしたの?」
 と聞くと兄が、
「僕は見えないけど、『お皿の生野菜の上に小さな青虫がもぞもぞと動いている』と言うんだよ」
 とおしえる。
 兄嫁は内気でおとなしい人だから、何も言えないことは解っている。私はすぐに、
「そのお皿は私のお皿と交換しよう」
 と言って私の前にそのお皿を置いた。

 次のお料理を運んできた若い仲居さんに、この虫を見せて、
「調理場の方に一応話してくださいね」
 と優しくいった。ところが、再度部屋にきて、
「調理場ではいつも丁寧に洗っています。そのようなことは決してありません」
 そのうえで、
「その方のお一人分だけ御代はいりません、とのことです」
 この言葉で私は頭にきた。
「どなたか調理場の人か責任者に、ここに来ていただきたいと言って下さい」
 と穏やかに言った。


 横にいる姉たちは「もういいよ、いいよ」と心配そうに言う。
「私はいやよ、僅か3000円でケチをつけたと思われるなんて、私の気持ちは収まらない」
 すぐに女将さんらしき人が来た。
「事情はお聞きになったでしょう。調理場では洗い方に落ち度はないといわれますが、キャベツやレタスの葉の裏に小さい虫はあるかもしれないでしょう。私も一人分の食事代をけちる為に、五ミリの虫を大事に真綿にくるんで、長崎から、抱っこしてきませんよ。それともハンドバックに隠して持ってきたとでも言うのですか?」
 と、強く言った。
 女将さんは私の剣幕にびっくりしたのか、
「申し訳ございません。調理場の者たちにも言い聞かせます。たしかに小さな虫は葉の裏にいる事もあります。どうぞ機嫌なおして召し上がってくださいませ。お許しください」
 と頭を畳につけて謝られた。

 それから一同は食べたけど、私だけは半分も入らなかった。

 その後お寺へ行き、大事な話をすませて、6時の列車で長崎へ帰る予定だった。ところが兄が飲み直し、食べ直しで、夕飯をすませて帰ろうと言うので、お寺の奥さんの紹介で、近くの料理屋さんへ行った。小さなきれいな店だった。

 部屋に入るとテーブルの上に卓上コンロが二つ用意してある。姉と二人で、「これはおなべだね。」と笑って待った。

 案の定、大皿に食材がいろいろと美しく並べて運ばれてきた。仲居さんがお酒や、おつまみ等の小鉢など運んでから、
「ではどうぞごゆっくり」
 といって去ろうとした。そこで私は、
「あのねぇ、私達主婦はいつも家で炊事をして、お料理しているの。だからこのように外に出た時は、何もしたくない『上げ膳、据え膳』で食べたいから、貴女作ってくださいませんか?」
 とお願いした。
「あ、そうですか、男性だけの時は作りますけど、奥様がいらっしゃるから」
 と優しく言われて、二つのおなべができあがった。
「やはり貴女たちプロはお上手ね」
 と、褒めたたえ味以上に『美味しい、美味しい』と言って食べた。


 帰りの電車の中で姉が、
「貴女、よく言ってくれたね。私もグループで出かける時、いつもおなべは嫌。お店の方は楽なのよ。次からは私もこのように言って頼むことにしよう。やはり貴女がいないとだめねぇ」
 と喜んだ。
 おだてと思っても心地いい。
 私は、今日の自分を振り返って
(私ってクレーマーおばさんかしら?)
 と忸怩たる思いだった。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより

恋愛結婚? 見合い結婚? = 遠矢 慶子

「おーい」 「おーい」
 広い乱雑な編集局のあちこちから大きな声がかかる。
(原稿を書き終えた)
(鉛筆を持ってきてくれ)
 など、記者が大声で叫ぶと、ボーイと呼ばれる男の子が飛んで来る。

 初めて新聞社に入ったとき、その声にびっくりした。
 編集局はワンフロワーに編集部、スポーツ部、文化部、外報部、経済部、政治部と各部所が見渡せる。

 私の配属された文化部家庭欄は、その中で、唯一女性が三人いた。50代の色白ででっぷりした記者、後の二人は30歳前後の細身のなかなかの美人記者であった。


 文化部長は、中川一政の息子の中川鋭之助氏で、巨匠そっくりのらっきょうのような顔で、背の高い、やさしい新聞記者らしくない穏やかな部長だった。

 編集局内は、散らかった机の上の隙間に、原稿紙を置いて、夢中で書きまくっている人、調べものをしている人、椅子を倒して電話をかけている人と千差万別だ。

 同じなのは、机の上がどこも紙と本と電話で、ごちゃごちゃしていることだ。

 大学を卒業し、航空会社に入り、3年乗務した。昔の航空機は気圧の対応が悪く、耳が詰まる航空性中耳炎になり、三年で退職した。
 その頃、女性の結婚適齢期は23歳か24歳、25歳は、もうオールドミスになってしまった。ボーイフレンドと結婚する気もなく、そんな時、父の友人のコネで、新聞社に途中入社した。


 文化部に配属され、デスクがうるさい男だったが、居心地はよく、社内で女性はもてもてで、昼時になると食事の声がかかる。そのころ運動部にいた夫は、ちらちらと文化部の女性に、目を奪われていたようだ。


 ある時、近所の女性ばかりの集まりで、
「恋愛結婚?それともお見合い結婚?」
 と聞かれた。
 そこにいた同年配の女性7人の内、私以外全員が、お見合い結婚だった。

 そういう時代もあったのだ。
「どうして彼と結婚したの?」
「運動部にいた彼から、結婚してくれなければ死ぬと、脅されて」
 銀座のレストランで食事をし、ふたりは数寄屋橋のあたりを歩いていた。彼が親に会ってくれと言うのを、私がはぐらかして、はっきり返事をしなかった。

 すると、彼(いまの夫)がいきなり歩道から、車の走る車道に飛び降りようとしたので、びっくりしてしまった。


「あの時、死なせておけば良かった」
 と、ふざけて言った。
「そうよ、はったりよ。死にゃしないわ。バカねあなたも」
 本当に純情で世間知らずのバカだった。
 どこでどうして付き合うようになったかは忘れてしまった。

 ただ、その頃のボーイフレンドは皆、控えめでやさしすぎ、夫のようにずうずうしく積極的なところに、惹かれたのかもしれない。
「すぐ会社を辞めてくれ。月給は僕が出すから」と言ったのも嘘だった。
 親の選んだ書類審査で、お見合い結婚した友人たちも、全員が未亡人になっている。人生なんて皆同じように、良いときもあり、悪いときもある。

 一生を通して、皆同じ人生になるようだ。
 ただ、生まれ変わったら、私は、絶対に違う男性を選びたい。


             イラスト:Googleイラスト・フリーより

マグロのかま = 石川 通敬

 数年前までは日々ダイナミックに変化していた生活のパターンが、年のせいか、最近はいくつか決まったものを繰り返すようになってきた。


 その一つが、藤沢のケースだ。まずゴルフをする。その帰路がルーティーン化しているのだ。藤沢市郊外のライフタウンにあるイオンで夕食の中華料理をテイクアウトし、季節の花を買った後、豆腐屋で生湯葉を買い、最後に魚屋によってから目黒の自宅に帰るというものだ。
 その最後の魚屋で年に何回か嬉しいサプライズがある。


 そのとき私は、
「今日は久しぶりにかまをもらったよ」と妻に電話する。
 それは魚栄という店で、マグロのかまをサービスとしてもらった時だ。

 
 かまは、塩焼きか鍋がおいしい。私はどちらも大好物なのだが、その日の気分と、季節により、どちらかに決める。

 鍋の時は、ある雑誌で知った「池波正太郎に教わる小鍋立て」というレシピに従う。
 だし汁の中に、マグロとネギ、カイワレ大根、茗荷を入れて食べるのだ。味は銀座の小料理屋に負けない。  

 こんな贅沢が許されるのも、半世紀以上もひいきにしてきたこの店との出会いがあってのことだ。それは藤沢市善行にある。

 戦後日本経済が高度成長を始めたころ、初代の親父さんが、漁師をやめ江の島から新興住宅地の駅近くに魚屋を開店したのだ。

 父が昭和30年代後半に東京から移り新居を立てたのがこの店の近くだった。その偶然が今でも続く計り知れない恩恵を、我が家の食卓にもたらしてきた。

 店構えは、間口2間、奥行き1間ほど。戦前、戦後の江の島周辺の商店を彷彿とさせるレトロなものだ。その象徴は、魚が入れてある氷水のケースの上に一個ぶら下がっている裸電球である。
 魚の処理が行われるのは、打ちっぱなしのコンクリむき出しの調理用水槽とその上に置かれた分厚いまな板だ。そこで頭を落とし、腹を処理、三枚におろす。

 そのあと刺身の仕上げは、流しの横に作られた間口、奥行きがそれぞれ半間ほどのガラスで仕切られた作業場で行われる。
 谷内六郎や原田泰治の絵の世界を彷彷彿とさせる風景だ。


 私がこの店を素晴らしいと評価しているのは、そのレトロな風情故ではない。食料品店として、魚の品揃えが抜群に多く、その質が高級料理店に負けないからだ。常に旬の新鮮な魚が並べられている。

 むろん高級スーパーやデパートが扱う日持ちの良い、大型の高価な魚もある。
 それよりうれしいのは、相模灘を中心に、伊豆、千葉と近海の魚が、江の島市場から、季節の移り変わりとともに次々ともたらされる点だ。
 しかもその味が最高のうえ、店舗・設備にお金をかけていないからだろう、値段が安く、うれしさが倍加される。


 売りに出される魚の種類の多さに興味をそそられ、ある時一年かけて店に並んだ魚をノートに書き留めてみた。驚いたのはその数だ。100を超えていた。
 私はこれに感動し、写真に撮ってアルバムを作り、魚栄歳時記を書いてみようとまで考えた。

 この店が評価できる点は他にもまだある。現在二代目の当主が、うまいものを見つける優れた目を持っていることだ。
 家業を引き継ぐ前、レストランで修行したと聞いており、私はその経験が、うまいものを見つける力を養ったに違いないと思っている。その上顧客との対話を参考に人気商品の品揃えを着実に増やしているのが立派だ。

 この点については、私も大いに貢献していると自負している。一例をあげると、「こはだ」と「しんこ」のケースだ。処理に手間がかかるうえ、売れるかわからないと判断していたのだろう。売りに出されることはめったになかった。

 そんな事情を知らず、ある時私は「しんこ」を大量に買占めた。それがきっかけとなり、同好の客もだんだん現れ、今では同店の主要品揃えの一角を占めるようになっているのだ。その他なまこ、赤貝とホタテの貝柱などもそうではないかと密かに喜んでいる。

 普段から人気のある店だが、年末年始は超繁忙になる。顧客からの大量の正月用刺身盛り合わせや鯛の塩焼きの注文を受け、年末から正月まで三日三晩ろくに寝ることもなく働く。あるとき妻が
「また大変なお正月が来るわね」と聞いたことがある。
 答えは、
「いやだね。来てほしくない」
 というものだった。そんな中、
「石川さん、今日のかまは、年末の刺身用に仕入れた特別うまいマグロのかまだよ」とささやいてくれる。その時は、車に乗ると同時に、
「今日のかまは、正月用の特上もので、いつもより大きく立派だ」と勇んで家に電話する。

 魚栄は、我が家の食生活の重要なパートナーとなっている。その彼が毎年シクラメンを年末にお歳暮としてくれる。
 これが花もちがよく、毎年5月まで楽しめる。このお礼に我が家からは、チョコレートが趣味の彼に、妻が世界で注目されているマニアックなチョコレートを、バレンタイン・フェアーの中で探し出しプレゼントすることにしている。


 大量消費時代の流れの片隅に残るこんなご縁が、今しばらく続くことが我が家の願いだ。


        イラスト:Googleイラスト・フリーより

ハヤシライス  = 金田 絢子

 夫は食道癌で2月16日(平成30年)に亡くなった。夫が逝って二週間が経った。

 夫の遺影のうしろのシャッターをあけたら、ランドセル姿の、黄色い帽子の男の子が傘を右手に持って通りすぎた。「雨があがったんだわ」と何がなしうれしかった。小鳥の声もしている。

 夫は晴れ男で、調子がよくて怒りっぽい。友だちも沢山いておしゃべりで「わたしは愛妻家ですから」と照れずに言える男だった。

 亡くなる前日、悩めるガン患者のようでなく雄弁で、愛想がよく、笑みを浮べ私にもやさしかった。富山からやってきた次女をねぎらったりもした。

 2月10日に入院したのだが、それまで家にくらした。介護ベッドをリビングに置いた。二階の寝室に重い点滴の液の入ったバッグを持ってあがるのはひと苦労だった。それが、最後の入院の間際まで続けた。
「まだ俺は歩ける」
 それが生きる糧だったのだろう。

 のどから、一切の食を絶たれた夫を目の前にして、私は一人食卓に向う。一人ぼっちの食事に侘びしさが押しよせる。まるで味がしない。こんなはずじゃないのにと、思いつづけた。

 夫は私の料理を批評し、よくほめてくれた。
 なかでも夫が「おいしい、おいしい」と言って食べてくれたのは、ハヤシライスだった。
 料理の本を見たのか、新聞にのっていたのかすでにはっきりしないが、ラードで小麦粉にチョコレート色になるまで火を通す。ウスターソース、ワインをつかい、砂糖をひとつまみ入れる料理法は、じき覚えた。
 どうしても四、五人分出来てしまうので、残りを翌日、パスタにかけて食べた。

 朗らかで、からりとした性格の夫と、根にもつタイプの私とは、よくぶつかった。散々夫は腹をたててまくしたてるが、やりきれないといった顔で
「性格がちがうからなあ」
 としめくくる。

 夫はどこへも一人でいかれない私に心を配り、素直でない私をさとしてくれた。
 気を遣いながら君臨もした夫である。大きな支えを失い、とぼとぼと私は生きてゆくのだ

 夫のいない茶の間で、一人ぼっちの夕食をとる。一人分のお味噌汁をつくる。具はなすである。夫が好んだナスのおつゆだが、気がついたことがある。
 私の好みに合わない。おいしくない。明日はお豆腐とおあげを入れようと決める。

 夫と一緒に食べた日、私はなすのおみおつけをまずいとは思わなかった。ハヤシライスも夫がおいしいといってくれたから、私も自分の腕に満足したのかもしれない。ハヤシライスをつくらなくなって、何年になるだろう。


  イラスト:Googleイラスト・フリーより

ツィッターからの読者感想文、『芸州広島藩・神機隊物語』 =ひえだのあれい

 私には良い小説を読む時のルールがある。
 その小説の場面に入り込んで様々な人の立場でその状況を考える。
『芸州広島藩・神機隊物語』は合間を入れて様々な人物になって考えながら噛(かみ)み締めて読んだ。

 先の『広島藩の志士』を読んだときは、隊長の高間省三にスポットを当てていた為か、神機隊員達の状況が十分に掴めずにいたが、
『神機隊物語』を読んで、隊員達の官軍の中で置かれている立場や戦闘状況が壮絶過ぎて、これが本当にあったことだとは信じ難いほど過酷なものであった事に驚愕を覚えた。
 『神機隊物語』を読み終えると、戊辰戦争は神機隊の壮絶な戦いによって決したと断言していい、ということがよく解かった。また、必要に迫られてそうなったにしても、広島藩の思想や藩政は現代からみても最先端を行っていると思われる。
 そんな広島藩が明治新政府の中核を成していたならば、いろんな意味で世界をリードする国になっていただろう。それからすると、現代の広島はまだ本来の能力を出し切れていないのかな?

 神機隊が青葉城に入場したとき、まともに歩行できたのは数人だけだった。みんな怪我でボロボロの状態だったに違いない。自分たちを恐怖に陥れた神機隊の凱旋を見て、仙台の人たちはどう思ったのだろうか。
 戦争が終わってみれば、このボロボロの小集団(神機隊)に、数千もの仙台藩の軍勢が恐怖に慄いていた、という事実に対して信じがたかったに違いない。
 また、神機隊の壮絶な戦いでも広島自体が恨まれていないのは、極力民を犠牲にしない一貫した姿勢と対応、そして義の為に命を懸けていたことが、その心が、何となく福島の領民に伝わっていた、そう思いたい。
 福島といえば長州を恨んでいるとよく云われているが、長州は討幕と功名心ばかり目立って、義を尽くす姿勢がなかったから恨まれたのだろう。
 薩摩となれば、厳しい戦場から逃げるくらいだから、問題外だったと思われる。

 広島藩士の活躍が、歴史の表舞台から消し去られた。それには、活躍した神機隊が広島藩正規軍として認められなかったことが、大きく影響しているのではないかと思う。広島藩の正規軍(応変隊など)も戊辰戦争には参加している。職業軍人として徹底して訓練された精鋭部隊である神機隊とは比べものにはならない。活躍したとはみなされていない。そして戊辰戦争は薩長の手柄になってしまったのだ。
 更には薩長の周りを蹴落として我一番になろうとする思惑に対し、団結して、みんなで局面を乗り切ろうとする姿勢に手柄を独り占めしようとしない奥ゆかしさ。
 ここに広島が明治の中央政府から、外された大きな理由があるのだろう。

                     「了」

【関連情報】

 写真=穂高健一・相馬中村城 2014年6月14日
 
 相馬藩・中村城です。「神機隊物語・奇襲の駒ヶ嶺」(285ページ)で、~戦える隊員はわずか90人程度だった。~太陽が真上にさしかかるころ、神機隊は相馬中村城下に入った。
 

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
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