寄稿・みんなの作品

電気がついた!  黒木 せいこ 2019 年 10 月

 近 年 に な い 大 型 の 台 風 らしいので、 我 が 家 で は 雨 戸 を 閉 め たり 、 庭 の 飛 び や す い 鉢 を 室 内 に 入 れ た り 、 台 風 へ の 備 え を し た 。

 風 雨 は 夕 方 か ら し だ い に 強 ま り 、 夜 に な る と 暴 風 雨 と な っ た 。

 家 の サ ン ル ー ム の ガ ラ ス に 、 庭 の 木 の 枝 が 勢 い よ く 当 た る 。 時 おり 、 ゴ ー ッ と い う 音 が し て 強 風 が 吹 き 、 ミ シ ミ シ と 家 が 揺 れ る 。「 家 は 大 丈 夫 だ ろ う か 」 眠 れ ぬ ま ま 不 安 な 夜 を 過 ご し て い る と 、夜 中 12 時 ご ろ 、 突 然 電 気 が 消 え た 。 真 っ 暗 な 中 、 懐 中 電 灯 を 探し た 。

「 こ ん な 強 風 な の だ か ら 、 電 線 が 切 れ る こ と も あ る だ ろ う 。 明 日に な れ ば 台 風 も 去 り 、 復 旧 す る だ ろ う 」 私 は そ う 軽 く 考 え て いた 。

 停 電 は 2011 年 3 月 の 東 日 本 大 震 災 後 の 計 画 停 電 以 来 で あ る 。
 あ の 時 は た っ た 4 時 間 だ っ た が 、 何 も で き ず 、 寒 い 中 毛 布 に く る
ま っ て 過 ご し た の を 思 い 出 し た 。

 今 度 は 夏 だ が 、 ク ー ラ ー を 入 れ る こ と もで き ず 、 窓 も 開 け ら れ な い の で 、 寝 苦 し い夜 だ っ た 。

 2019 年 9 月 8 日 、 台 風 15 号 が 関 東 地 方 を 直 撃 し た 。 夜 が 明 け 、 窓 を 開 け て み る と 、 庭 の 木 々が 折 れ て 散 乱 し 、 サ ン ル ー ム の ガ ラ ス に は飛 ん で き た 落 ち 葉 が 至 る と こ ろ に 張 り 付 いて い た 。

 外 へ 出 て 少 し 歩 く と 、 大 き な 木 が 折 れ て住 宅 に 倒 れ て い る 光 景 が 目 に 入 っ た 。 テ レビ は 映 ら な い の で 、 ス マ ホ か ら だ け の 情 報だ が 、 関 東 地 方 、 特 に 千 葉 県 に 被 害 が 出 て い る ら し い 。

 近 く の 高 速 道 路 は 通 行 止 め で 、 一 般 道 は 大 渋 滞 。 電 車 も ス ト ップ し て 、 ど こ へ も 行 く こ と が で き な い 。 ま さ に 陸 の 孤 島 で あ る 。

 そ れ で も 、 今 ま で の 経 験 か ら し て 、 こ ん な 状 態 は 丸 一 日 も あ れ ば解 消 す る だ ろ う と 思 っ て い た 。

 ラ ジ オ で 聴 く 東 京 電 力 の 会 見 で も 、 最 初 は 1 ~ 2 日 の う ち に 復旧 す る だ ろ う と の 予 測 だ っ た 。 夜 に な り 、 真 っ 暗 な 中 、 外 の 灯 りに 気 が つ い た 。 窓 を 開 け て 空 を 見 上 げ て み る と 、 明 る く 光 る 月 が見 え た 。 街 灯 も な い 中 、 や け に 月 明 か り だ け が 目 立 っ て い た 。

 二 日 目 に な っ て も い っ こ う に 電 気 は つ か ず 、 長 引 く 停 電 の ため 、 水 ま で 出 な く な っ て し ま っ た 。 丸 二 日 経 っ て 、 も う 冷 蔵 庫 の中 の 氷 も 保 冷 剤 も す べ て 役 に 立 た な い 。 冷 蔵 庫 内 の 生 も の は す べて 処 分 し な れ ば い け な い 。 ト イ レ は 風 呂 に 溜 め た 水 で 流 し た 。 食事 は カ ッ プ 麺 な ど で 済 ま せ た 。
テ レ ビ が 見 ら れ な い な ど の 生 活 の 不 便 さ は 何 と か 我 慢 で き たが 、 暑 さ で 夜 も 熟 睡 で き ず 、 精 神 的 に か な り 参 っ て い た 。

 近 所 の 人 た ち の 中 に は 都 内 の 知 り 合 い の 家 へ 行 っ た り 、 ホ テ ルに 宿 泊 す る 人 も い た 。

 停 電 三 日 目 と な り 、 心 身 と も に 疲 労 し て き た 。 水 は 出 る よ う にな っ た が 、 電 気 は ま だ だ 。 ス マ ホ を 充 電 す る た め に 、 車 で 30 分ほ ど の コ ン ビ ニ を 利 用 し た 。 こ こ は 断 水 だ が 、 電 気 だ け は つ い てい た 。 こ の こ ろ 、 道 路 は 開 通 し て い た が 、 今 度 は ガ ソ リ ン ス タ ンド へ の 渋 滞 が 始 ま っ て い た 。 暑 さ の た め 、 車 内 で 過 ご し て い る 人が 多 く な っ た か ら だ 。

 ラ ジ オ か ら の 情 報 で 、 被 害 の 状 況 が だ ん だ ん わ か っ て き た 。 停電 は 千 葉 県 内 で 30 万 戸 近 く に な っ て い た 。 屋 根 瓦 が 飛 び 、 多 くの 人 た ち が 雨 漏 り で 困 っ て い る と 聞 い た 。 私 は 家 の 被 害 が な か った だ け で も 幸 運 だ っ た 。 そ う 考 え て 我 慢 し よ う と 思 っ て み る も のの 、 暑 さ の た め 、 う ち わ を 手 放 せ ず 、 う ん ざ り し て い た 。


 以 前 住 ん で い た 海 沿 い の マ ン シ ョ ンを 見 に 行 っ た 。 自 宅 の 部 屋 は 大 丈 夫 だっ た が 、 自 宅 の す ぐ 下 の 部 屋 は 、 ガ ラス が 粉 々 に 割 れ て い た 。 こ こ に 住 ん でい れ ば 、 も っ と 大 変 な こ と に な っ て いた か も し れ な い 。

 停 電 三 日 目 の 夜 に 、 再 び 東 京 電 力 の記 者 会 見 が 行 わ れ た 。 電 気 が つ く の を今 か 今 か と 待 ち 望 ん で い る の に 、 発 表 で は 、 被 害 が 思 っ た よ り ひ
ど い の で 一 週 間 か ら 十 日 ほ ど か か る と 言 う 。 私 は 絶 望 し た 。

「 こ ん な 生 活 が 続 く な ら 、 ど こ か へ 逃 げ 出 し て し ま い た い 。 明 日
こ そ は 友 人 の 家 に で も お 世 話 に な ろ う 」 
 そ う 思 い な が ら 、 う ち わ を 持 っ て 布 団 に 入 り 、 再 び 寝 苦 し い 夜が 始 ま っ た 。 数 時 間 経 っ た 時 、 か す か に 何 か の 電 子 音 が し た 。 それ は ど こ か で ス イ ッ チ が 入 っ た よ う な プ チ ッ と い う 小 さ な 音 だ った 。 そ れ と 同 時 に テ レ ビ の 電 源 の 赤 い ボ タ ン が 光 る の が 見 え た 。

「 電 気 が つ い た ! 」
 私 は 思 わ ず 叫 ん だ 。 電 気 が つ く こ と が こ ん な に も 嬉 し い と は 思 わな か っ た 。 思 わ ず 家 の あ ち こ ち の 電 気 を つ け て 回 っ た 。 深 夜 に もか か わ ら ず 、 隣 り 近 所 の 家 に も 、 次 々 と 灯 り が つ き 始 め た 。 皆 、考 え る こ と は 同 じ な の だ ろ う 。

 私 の 家 の 近 く に は 大 き な 救 急 病 院 が あ る 。 そ の 病 院 の 自 家 発 電が 切 れ そ う に な っ た た め に 、 こ の 地 域 の 停 電 が 早 く 復 旧 し た と いう 話 を 、 あ と に な っ て 聞 い た 。

 結 局、 停 電 は 丸 三 日 、 断 水 は 一 日 だ っ た 。 今 の 便 利 で 快 適 な 暮 らし の ほ と ん ど は 電 気 に 依 存 し て い る 。 電 気 や 水 の あ り が た さ 、 それ を い つ も 守 っ て い る 人 た ち の あ り が た さ を 、 今 回 の 台 風 で イ ヤと 言 う ほ ど 思 い 知 ら さ れ た 。

【元気に百歳クラブ】あのころ 森田 多加子

 窓ガラスは、ところどころなくなっているし、残っていてもひび割れていたりする。そこから入ってくる風は、廊下を吹き抜ける。
 その廊下に、七人くらいだったろうか、小学校四年生の私たちは、窓を背にして、横並びに立っていた。いや、立たされていたのだ。

 第二次世界大戦の終盤に入ったころだった。こんな小さな町にも、敵機はいつやって来るかわからない。
 昼は偵察機らしきものが飛び、空襲になるのは夜が多かったと記憶している。いつ死ぬかもわからない毎日は、子どもにだって伝わってくる。あまり楽しいこともなく、それでも毎日学校に通っていた。

 学校では、授業が終わると掃除が始まるが、それも軍隊のように、規律正しくがモットーだ。
 この日の私は掃除当番だった。教室の掃除が終わると、みんなで板張りの廊下を雑巾掛けする。誰が言い出したのか、四人が横並びに一列になり、腰を高くして「よーい、どん」で、まっすぐに進む。
 ぶつかり合いながら教室の端まで来たらUターンする。
 廊下を雑巾掛けしながら必死に突き進む。思わず大声がでる。首をすくめながら、口に手をもっていき、「しー(静かに)」と言いながらも、みんなにこにこ顔になっていた。

 掃除が終わると整列して班長が「ありがとうございました」と号令をかけ、みんなが復唱して解散する。そういう『決まり』を、きちんと守るのが当時の小学生だった。

 その日は、廊下を雑巾がけしながら「運動会」になったので、気持ちも高揚していたからだと思う。班長だった私は、笑いがとまらないまま、整列後の挨拶で「ありがとうございませんでした」と、何の意味もなく言った。
 当番仲間は、大声でそれに和した。


 隣のクラスの佐藤先生が、笑いながら出てこられて、「あら、あら」と言って、教員室の方に行かれた。
 翌日の朝礼の時間、クラス担任の田中節子先生が、速足で教室に来られた。頭から、顔から、湯気が出そうな雰囲気だ。教卓の前に立つやいなや、
「きのうの掃除当番の班長さんは誰ですか?」
 私は、おっかなびっくりで立ち上がった。
「掃除後の挨拶を言ってごらんなさい」
「はい……、ありがとうございました」
 すかさず先生からの言葉、
「昨日、そういいましたか?」
「……」
「何といいましたか?」
「……」
「ありがとうございませんでした、とは何ごとです」
 烈火のごとくという言葉があるが、まさにそれだった。

 田中先生の顔は、湯気を通り越して、炎のように真赤だった。もともと明るい笑顔を見せたことのない先生だった。おかしい時は、口をちょっと歪めて笑う顔しか覚えがない。
 そんな田中先生からの雷だ。怖かった。内容は全く記憶にないが、戦地の兵隊さんに申し訳ない、というようなことだったと推測できる。

「昨日の掃除当番は、全員起立。廊下に出なさい」
 顔を見合わせながら教室から出て、廊下に横一列に並んだ。立たされたのだ。
 国民学校(小学校)に入って以来、私は、先生に怒られたことがなかったので、この屈辱は耐えられなかった。しかし、この日の田中先生の怒りは尤もだ。私が大事な規律を乱したのだ。班のみんなに悪いことをしてしまった。
 
 田中先生は三十代だった。その時代には、まわりにたくさんいたフツーの大人と同じように、ただ、おかみ(政府)に言われる通りに、必死で生きていた真面目な国民であったと思う。
 当時の経済的にも、精神的にもゆとりのない殺伐とした生活の中で、「お国の為に」というスローガンを信じて、まっすぐに生きていたに違いない。

 現在、日本人のほとんどが、あの忌まわしい戦争を知らない世代になった。体験していても、幼少のことだ。記憶が覚束ない人もいるだろう。
 少しは覚えていると思われる人は、八十歳以上になった。映画やTVドラマで戦争のむなしさを描いても、どれだけの人が自分のこととして捉えることが出来るだろう。

 知り合いのおばさんが、爆風で屋根の上に吹き飛ばされて死んでいた。同級生のアヤちゃんも死んだ。私は決して「あの頃」を忘れない。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【元気に百歳クラブ】 最後の海外二人旅  武智 康子

 眼下に見えるのは、一面緑の草原、ところどころに深緑の森があり、赤い屋根が点在する田園風景である。そのはるか向こうに二本の滑走路が見える。アイスランドとは全く違う長閑な風景の空港である。

 ここは、スコットランドの首府、エジンバラの郊外である。

 夫と私は、アイスランドからロンドンに戻った三日後、私の希望もさることながら夫のもう一つの夢を叶えるため、スコットランドとイングランドの旅に出たのだ。

 まず、空港から四キロほどの所の田園と森に囲まれたホテルを目指した。それは、翌日からこのホテルを出発点に四泊五日の現地のバスツアーに参加するためだ。
 夫は、現役時代にスコットランドの鉄鋼会社の人に、エジンバラの高齢夫婦の愛のベンチの話を聞いていたので、それを自分の目で見たかったのだ。


 参加者の大半は欧米各国からの人たちだが、その中に一組の日本人の新婚カップルがいた。海外旅行が初めてで不安そうだった彼らとは、この旅行が縁で今も文通が続いている。

 バスは、緑の田園風景の中をエジンバラに向けてひた走り、街の中に入った。エジンバラ城は丘の上にある。坂の手前でバスを降りた私たちは、なだらかな坂をゆっくりと歩いた。私は夫に話しかけた。
「あの老夫婦も毎日こうやってこの坂を、上っていたのですね」と。夫も「多分、そうだね」といった。

 城の見学の後、私たち夫婦は庭園でそのベンチを探したが、見つからなかった。

 ガイドに尋ねると、そのベンチは坂の下の市民公園に移されたと、教えてくれた。私たち二人は、ちょっとだけでもそのベンチを見たいと、ガイドに頼み一足先に坂をくだった。
 公園に入ると、入り口近くの大きな樹の下に幾つものベンチが並んでいた。そのうちの手前のほうの三つのベンチに、金属のプレートがつけられていた。古いのには、
 「レテラ ラマーラの思い出の標
  彼女は、夫と家族を愛し 二人はいつもこのベンチに座っていた。一九七三年二月十二日 他界」
と、あった。

 夫は感慨深そうに眺め、私たちも座ってみた。何だか心が温かくなるような気分だった。

 翌日は、新緑の森と湖と田園のスコットランドの湖水地方をめぐり、気分を癒してイングランドに入った。
 まず最初にウエジウッドの工場で正式のアフタヌーンテイーを楽しんだ。
 そして、ビジターセンターで私がいつものように新しい柄のコーヒーカップを二客求めている間に、このような店であまり買い物が好きではない夫が、自分のカフスボタンと私のためのペンダントを求めてプレゼントしてくれた。
 私は嬉しかった。


 今となっては、夫からの思い出の最後の贈り物として、カフスボタンとともに大切にしている。
 そして、バスは南下して、いよいよ観光客の多いシェックスピアの街に入った。
 しかし、シェックスピアセンターに入った途端、私の足が止まった。それは、看板の説明が英語より先に中国語の説明があったのだ。


 私は、違和感を感じた。聞けば、中国からの寄付があったとのことだが、シェックスピアは世界的に有名な英国の作家である。
 日本語の説明はなくとも、つたない英語力で英文を理解しようとした私には、ちょっとばかり悲しかった。しかし、中庭では、シェックスピアの戯曲「ベニスの商人」が演じられていた。もちろん英語である。私は、なんとなくホッとした。

 その後、バスはバースやストーンヘンジ、コッツウオールズなどを回って、ロンドンに到着。皆と一緒の長旅は終わった。

 ガイドの気配り、各国の人々との絆、見学以上に得ることが多かった素晴らしい旅だった。
 夫とわたしは、ホテルに再チェックインして馴染みの日本食レストラン「菊」で久しぶりに日本食をあじわった。

 次の日の午後、余りの爽やかな天気にリーゼントパークを散歩した。すると白と淡いオレンジ色が混じった花が咲いているマロニエの木の下に、エジンバラと同じようなベンチがあった。二人はそこに座った。

「こんなにゆっくりした海外旅行は、初めてですね。今までは、若さに任せて、また、欲張って走ってばかりでしたものね」
「そうだね。今度は、アイスランドにオーロラを見に行こう」
 と、夫は話していたが、もう二度と海外二人旅はできなくなった。

 だが、いつも海外出張では忙しくて行くことができなかった、夫の二つの願いを叶えられたこの旅が、私への大きなプレゼントとなって、今、私の心の支えとなっている。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【元気に百歳クラブ】 良い歳になってきた  青山貴文

 孫たちと深谷市郊外にあるパティオにでかけた。我家から、車で20分ぐらいにある総合遊泳場だ。

 私は、このパティオに入場するのは数十年ぶりだ。先ず、孫たちと波のプールや流れるプールで遊ぶ。ともに満員で、芋を洗うとはよく言ったものだ。
 とにかく泳ぐというよりも混浴状態だ。老若男女が水中で、ぶつかり合い、「ワーワー」声を出し合う。久しぶりに童心に戻り、若返った。

 10分間の休憩時間に、全員水中から出る、学生アルバイトらしい逆三角形の体形をした監視員たちが水中を点検する。孫たちは満員のジャグジーに入るため走っていく。妻と私はドライサウナやウェットサウナで過ごす。どこも元気な子供たちで一杯だ。休憩後、上階にある25メートル競泳プールへ内階段を登る。

「おじいちゃんは、水泳キャップがないから、ここでは泳げないよ」
 と、小学6年生のマー君が残念そうに教えてくれる。
 ここは、子どもの数が少なく、静かだ。階下と違って別世界だ。第一レーンのみ浅くなっていて、子供たちが父兄と一緒になって、泳ぎ方などを習っている。


 妻は、マー君にクロールの息の仕方を、小学2年生の日向子には、背泳ぎの効率よいバタ足のコツを教えている。
 彼女は昨年まで近所のスイミングプールの会員で、時々20往復くらい泳いでいた。
「孫たちをちょっと看ていてくださいね。私は少し泳いでくるから」
 と、彼女は私に言い残して、誰も居ない4レーンをクロールで泳ぎだした。泳ぎ方は正当で、なかなか堂に入ったものだ。


 私は、プールサイドのベンチから、孫たちの半分遊びの泳ぎを監視する。かれらは、私の視線を感じると、ニコッリと笑って練習をはじめる。
 私は無性に泳ぎたくなってきた。キャップを忘れたことは、残念でしょうがない。

 妻が数往復泳いで、プールサイドのベンチに戻って来た。無造作にキャップと水中メガネを外し、テーブルの上に置いて休んでいる。
 私は、衝動的に妻のピンクのキャップとピンク色の枠の水中メガネを掴み、頭に取り付ける。ちょっと、恥ずかしい。
 誰か見ているかと周囲を伺う。誰も気が付かないようだ。

 数人が泳いでいる2レーンに向かう。足の方から入水する。水中だと恥ずかしさが半減するから不思議だ。ゆっくり平泳ぎを始めた。
 私の平泳ぎは自己流で、頭を水面から常時出して泳ぐ。よって、メガネなど必要はなかった。


 小学生の頃、立川市曙町に住んでいた。近所の遊び仲間5~6人と、炎天下の川原を歩き、約1時間かけて多摩川の鉄橋下に行った。
 そこで、みんなで6尺のフンドシを巻いた。当時、水泳パンツなどなく、学校にはプールもなかった。
 多摩川の清流の水は豊富であった。鉄橋の橋げたの台座はコンクリート製で、その周辺は深く格好の泳ぎ場所であった。皆犬かきで泳ぎ回った。どうも、私の平泳ぎは、そのころの犬かきの延長だ。

 皆が私のピンクのキャップを見ているように感じる。
(何も悪いことはしていない。規則に準じているだけだ。係の人が、文句を言っているようでも無い)
 そもそも、ピンクは女性の色と決めつけるのがおかしい。

 私も、厚かましくなったものだ。キャップを忘れたからと言って、妻のピンクのキャップを借りて衆目の中で泳ぐなど、数年前は絶対できなかった。
 それを、少しの抵抗はあったが、やってしまった。
 周囲の大人も子供も、シラットしている。孫たちも、おじいちゃんだからしょうがないと言うような目つきをしている。


 あと一年で80歳になる。この年令になって、なにかと楽しいのだ。なぜなら、なにをやっても、法に反しなければ許される。年寄りだから致し方ないと、回りがゆるしてくれる。と言うより、妻に言わせれば、
「後期高齢者のあなたなんか、誰も気に掛けていないわよ」
 と言うことになる。

 キャップがないからと言って、プールサイドで孫の監視ばかりもしては居られない。わたしは、老い先短いのだ。だれも泳いでいないコースが数本あるのだから、大いに使えばいい。

 静かな水面を一人ゆっくり泳いだ。先ほどの波のプールや、流れるプールでの孫たちとの戯れも楽しいが、こちらの方が遙かに年相応で、品格がある。
 25メートルをゆっくり泳ぎ、折りかえして15メートルくらい泳ぐと、進み方が遅くなる。両腕や両肩の筋肉が痛い。もう泳げない。

 誠に残念だが、50メートルも泳げない自分がいる。さも泳ぐのを自発的にやめた仕草をして、両腕を水中から出して両手首を動かしてみる。
 それから、プールサイドのハシゴをあがってきた。そして、やっとベンチにたどり着き、余裕をもって座った。誰も私を見ていない。

 私は、良い歳になってきたものだ。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【元気に百歳クラブ】 同志  金田 絢子

 品川の京急での買い物を終えて、駅前のざくろ坂をのぼっていると、Oさんが坂をおりてくるのに出会った。
 彼女は、我が家にちかいマンションの住人である。
(なお、ご主人は亡夫と同じガンで、うちより数ヶ月早く亡くなった)

 ご主人の死後、Oさんは、ベッドをおりる際、すべるようなかたちで転んで骨折してから杖をついている。


 今年、平成三十一年、まだ寒いころ、予告なしにお邪魔をした。歩きがてら買物しようかと外へ出たとき「お寄りしてみよう」と急に思いついたのである。

 彼女と親しくなったきっかけなど、すでに覚えはない。でも、知りあってじきのころ、化粧品にかぶれ易い敏感な肌なのだと聞いたのが、印象にのこっている。
 きれいな白髪で、実に美しい上品な人で、独身のお嬢さんの上に坊ちゃんがいてお孫さんはいない。

 私が伺ったのは、何日か泊まっていた坊ちゃん夫婦が、帰っていったばかりの時だったようだ。
「すっかり耳がとおくなって」
 と悲しそうだった。
「主人の本は、人に持っていってもらいました」
「娘が一人残るのが心配で、死ぬに死ねません」
 とか、どうしても愚痴っぽくなりがちだった。


 近所だから、時折り道で会って立話をしてきたが、品川の坂の途中で会うのは初めてであった。これは、禁句だったかもしれないと、あとで後悔したのだが、
「おやせになったようね」
 知らぬまに私の口は動いていた。なんだかヘマをやったなと、ちょっとどぎまぎして、
「もともとやせてらっしゃるわよね。骨も細いし」
 とつけ足した。
「だから、骨折するんです。やっと34キロになりました」
 ご主人について病院通いをしていたころは、30キロに満たなかったそうである。
「K先生(私たちは、同じK内科にかかっている)にいった帰りなんですよ」
「私は、こないだK先生に、コレステロールがあがってきてますから食べる量をへらした方がいい。デコポンを食べるってはなしをしたら、デコポンは大きいから一日半分が適量ですって」
「わたしには、もっと食べなさいって」
 おそらく彼女が、あまりにやせているので、先生はそうおっしゃったのだろう。

 私が、「杖にはお馴れになった?」と聞いたとき、
「馴れました。でも体の中心が定まらない感じなの」
「私だってふらふらとしか歩けないわ」
 と言おうとして、何故か言葉がでなかった。

 それより何より、さよならしてから、ぐんと胸に迫ってきたのは、彼女が、
「一日が長いです」
 としぼりだすように口にしたひとことだった。

 私だって、死にたいと願い、亡夫に向って、
「あなたの声が聞きたい」
「寂しくてたまらない」
 と日記帳に書き散らしている。
 ただ、私は死にたいなんて言いながら、どこか大ざっぱでひょいと呑気にもなれるが、彼女の遣る瀬なさは、私に、「人間て、所詮はひとりなのよね」と軽くいなしては悪いような気を起こさせる。
 きっと性格も置かれた立場も異るせいなのだろう。

 ともあれ二人は、ほとんど同時期に夫の病に携わり、前後して寡婦となった。いわば、同志なのである。

 これからもよき隣人でありたい。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【寄稿・詩集】 久しぶりの奈良だった  中井 ひさ子

 京都で新幹線を降り近鉄線に乗り換えると、ああ帰って来たなと思う。車中での行き交う言葉や、見知らぬ人まで親しみ深く感じる。

 車窓は変わっているのだが、少しでも昔の景色が残っていないかと、見つめてしまう。遠目に見る少し荒れた寺、塔、瓦屋根の民家。そして、曲がりくねった道などはやはり嬉しい。
 奈良は狭い。バスは多く通っているが、何処へでも歩いて行ける。私の実家も奈良駅から歩いて十分もかからない。


 父母の仏壇に手をあわせた後、妹と若草山の麓までぶらりと行ってみようということになっ
た。勿論歩いてだ。
 私は冬の奈良が好きだ。冷たい風の潔さ、人影のない公園に膝のあたりまで積もっている落ち葉。その中に一歩一歩足を踏み入れる感触、ザワザワと枯れた音。一条通りを真っ直ぐ東に向かう。転害門をくぐり、右に戒壇院、左に荒池が見える。
 昔、ゆらりあふれていた池の水が今はない。枯れた池は池ではない。

 この辺りは母の散歩道だった。黒目がちの鹿たちが、首を振り振り近寄ってくる。
「今日はパンのみみを持ってこなかったね」
 母の声がする。
 私は「鹿の目はキリンの目に似ている」と独り言を言う。

 大仏殿の裏の石畳を歩く。低い土塀の家は東大寺のお坊さんを父に持つ同級生の家だ。佐保田君と小さく呼んでみる。
 優しくてちょっぴり泣き虫な男の子だったが、亡くなったと聞いた。でも、てれたように出てきてくれそうで門の中を覗いていた。

 突きあたると二月堂、三月堂、四月堂が在る。二月堂から奈良の町を一望できる。
「あの辺りがうちの家やね」
 妹が指をさす。
「三月堂の日光・月光菩薩立像もいいけれど、あまり知られていない四月堂の千手観音菩薩立像がいいよ」
 私はにわか案内人になる。

 校倉造りの正倉院の横を通り若草山へと向かいつつ、ふと思い出した。小学五年生の頃だったか、通っていた絵の教室で、私は一人の女の子にいじめられ、仲間外れになっていた。
 この辺りに写生に来た時も、何でいじめられるのだろうと思いつつ、一人、大木の根っこに座り黙々と絵を描いていた。
 柴山さんと言ったなあ。数年たって偶然会ったとき、「元気?」とにこやかに握手され、戸惑ったけれどすべて今となっては懐かしい。


 若草山に着いた。麓の土産物屋の縁台で姉妹そろって大好きなわらび餅を食べる。ここは友の実家だ。でも笑顔にはもう会えない。

 目の前になだらかな山が三つ重なりあっている。三笠山とも言うけれど、私は若草山の呼び方が好きだ。芝生と緩やか丸みが山を優しくしている。
 山上から駆け下りてくる子供たち。その中に遠い日々が見えてくる。

 手をしっかりつないだまま小学生と中学生の女の子二人が転がり落ちてきた。あれは私と澄子ちゃん。麓に辿り着くと半べそと、てれ笑い、互いにセーターの枯れ草をはらっている。痛みや怖さではなく、ごろんごろん感がからだから離れない。

 そして、山上でのできごとをも思う。私がいじめの相談をしたのだろう。お菓子を食べ終わると、澄子ちゃんが真顔で言った。
「あのな、人に好かれたいんやったら、自分が先に好きにならんとあかんよ」
 私はこくんとうなずいていた。
 大人になっても変わらず人間関係の苦手な私がいる。
「先に好きにならんとあかんよ」の澄子ちゃんの言葉を思い出し、自分自身に言い聞かすこと度々だ。なかなか、上手くいかないけれど。

 丸い目で見つめるしっかり者の澄子ちゃんは、今も奈良にいるのだろうか。
 地元奈良を歩くと忘れていたことが、大木の陰、土塀の内、山並から立ち上がってくる。懐かしい人々の姿が現れる。

 でも、今も奈良に住んでいる多くの友人には、歩いても、歩いても出逢わない。

  久しぶりの奈良だった 中井ひさ子 縦書きPDF
 

イラスト:Googleイラスト・フリーより

 【関連情報】

 詩集 「そらいろあぶりだし
 作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
 定価 : 2000+税 
 発行 : 土曜美術社出版販売
   〒162-0813 東京都新宿区東五軒町3-10
    ☎  03-5229-0730
    fax 03-5229-0732 

【寄稿・詩集「そらいろあぶりだし」より】 お花見  中井 ひさ子

 三月の終わりに、松村君から「青山墓地の桜がきれいです。お花見に来ませんか」とのハガキが届いた。住所は青山墓地、地下鉄「外苑前」からの地図と電話番号まで書いてある。

 毎年お花見は、歩きながら、電車の窓からなので、今年はと心が動いた。それに松村君には、卒業以来逢っていない。懐かしい。行こう。
 外苑前に着き地上に出ると車の往来、人の動きにスピード感があり、ちょっと立ち寄りたくなるお店が並んでいる。
「さすが青山」
 独り言を言いながら、地図どおり左へ左へ曲がって行くと右手に墓地と桜並木が続く。忠犬ハチ公の碑と共に建つ上野英三郎氏の名前を探しつつ通り過ぎたら、赤松の横に確かに彼の名前があった。

 手を合わすのか、名前を呼ぶのか迷っていると、すっと長身で切れ長の目の彼が現れた。
「変わってへんな、何年振りやろ」
 思わず出た私の大阪弁。
「君だって変わってないよ、でもちょっと太ったかい」
 彼はしっかり東京弁だ。
「いつ逝ったの」
「それが解らないんだ。気が付いたら青山墓地さ」
「それにしてもなぜ電話が付いているの」
「俺、理系だろう」
 にゃりと首をすくめる。

 歩きだすと桜並木は音を遠くした。薄桃色の花の群れは少し重たげに、空に向かって息づいている。柔らかな花弁が肩にかかる。
「今頃、どうして私にハガキをくれたの」
「いや君だけじゃないんだ、知り合いの女性十人に出したのだけど来てくれたのは君だけさ」
ちょっと困った笑顔は昔のままだ。
「俺、生きている頃は独りが心地よかったけれど、死んだら妙に人恋しくてね」
「私は生きていても人恋しいよ」
 思わずつぶやいていた。
「あまり私たちの生活と変わらないみたいね」
「そうさ、住まいが青山墓地に変わっただけさ。でも、夜はうるさいんだ。ここは軍人さん、文化人、お金持ちが多いだろう、生きていた頃のたわいのない自慢話に花が咲くのさ、人間なんて死んでも変わらないとしみじみ思ったよ」
 辺りを見まわしている。そして、指をさす方に顔を向けた。
「ほら、あそこのベンチに座っている女の人、俺たちの仲間さ」
 彼女は優しい目をして桜を見上げている。
「心が通い合った時だけ俺たちが見えるんだよ」
 いろんな所で松村君たちの仲間に出会っているのだと知り、これから街を歩く楽しみを思う。
「死んでも心だけは動いているんだ。それが良いか悪いか解らないけれどね」
 彼は空を見つめ、ぽつりと言った。
「近くにちょっと洒落た喫茶店があるんだ」
 桜並木を背に少し足が速くなった。
 喫茶店の中は、ほどよい明るさで雰囲気がありクラシック音楽が、心地よく耳に入ってきた。
「いつもの、イチゴショートとキリマンジャロ」
ウエイトレスに親しげに注文する。
 しばらくすると、大きなイチゴがのったケーキと深い香りのするコーヒーが、私の前に置かれた。思わずウエイトレスの顔を見ると、彼女はにこやかに私を見返した。

 前の席に目をやると空席だった。
 私はゆっくりとケーキとコーヒーを味わい、夕暮れの青山を後にした。

お花見 中井 ひさ子
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 【関連情報】

 詩集 「そらいろあぶりだし
 作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
 定価 : 2000+税 
 発行 : 土曜美術社出版販売
   〒162-0813 東京都新宿区東五軒町3-10
    ☎  03-5229-0730
    fax 03-5229-0732 
   

【寄稿・詩集「そらいろあぶりだし」より】 啖呵  中井 ひさ子

 喧嘩をするにもエネルギーがいる。頭がいる。度胸がいる。冷静さが必要である。なによりした後、心がからりとしていないといけない。
 
 私はすべてだめである。エネルギーはともかく、頭が悪い。度胸がない。感情的である。その上した後、心がうじうじ湿りっぱなしである(特に友人に対しては)。だから喧嘩は苦手である。はずである。
 なのに、すぐ頭にくる。人間ができていない。そんな時は考えるより先に言葉がでる。啖呵を切っている。

  私は、仕事で阿佐谷まで自転車で通っている。急いでいる時は、細い道を通る。一列に、並んでいる学生たちを自転車のベルを鳴らして、追い抜いていった時である。
「なんだよ、ババア」
 歳をとっても健在な耳はしっかりとらえた。
「ババア」は私にとって禁句だ。
「今、なにを言うたん。もう一度言うてみ! 年寄りなめたらあかんで」
 腹が立ったら大阪弁がでる。
 自転車を降りている。時間がないのにである。
「俺ら何にも言ってない」
 学生たちは横をむき、喧嘩は買わない。彼らのほうが、人間ができている。
「またやってしまった」
 家に帰り首をすくめる私に、娘は冷たく注意する。
「そのうち刺されるからやめたほうがいい」
 その娘にだって啖呵を切っている。
「今まで面倒見てきた分、しっかり返してもらうわよ」と。
 こちらも横を向き知らぬ顔である。

 私だって、いつも啖呵を切っているわけではない。ある会でいわれなく「女のくせに生意気だ」と声を荒立てられ、一歩足が前に出かかった。でも、でも、場所を考え、ここでは我慢、我慢と飲み込んだ啖呵。
「それはこうだ」との強い意見に、ふと、ひるみ呑み込んでしまった、あの時の強い思い。言えなかった思いが、からだに残り時々痛い。
 切らなかった啖呵、切れなかった啖呵より、思わず出た啖呵が愛おしい。

 分別なんてもっともらしい言い訳なんか聴きたくないと、自分自身に啖呵を切っている。

  啖呵  中井 ひさ子  縦書きPDF

イラスト:Googleイラスト・フリーより


 【関連情報】

 詩集 「そらいろあぶりだし
 作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
 定価 : 2000+税 
 発行 : 土曜美術社出版販売
   〒162-0813 東京都新宿区東五軒町3-10
    ☎  03-5229-0730
    fax 03-5229-0732 

【寄稿・詩集「そらいろあぶりだし」より】 扉  中井 ひさ子

 私は運動嫌いである。しかし、食べることは大好きである。それゆえ太る。これでは困ると、スポーツジムの会員にだってなった。でも会員証を使ったのは、二年間のうち数えるほどだった。
 もう女はやめましたと、太るにまかせていた。
「運動しなきゃだめでしょ。だめでしょ」
 娘が口やかましく言い出した。どうも、介護の不安を感じてきたらしい。
「倒れたらすぐ病院に放り込むよ」
 毎日のようにおどかされ、やっと重い腰をあげた。

 とりあえず毎日一時間ほど歩くことにした。歩くならば一番好きな時間帯の夕暮れ時である。
 灯りがにじんでいる。人々は足早に互いに無関心である。車の往来が激しくなる。街路樹の欅が時々ため息をつき揺れる。この空気のなかにすっぽり入り込んでしまう。時空の違う世界に来たと感じる瞬時である。

 いろいろな人と出会う。思いもしないことがおこるのだ。
 夕陽が沈み、青に少しずつ灰色を流し、空が深さを増していくと、青梅街道沿いにある三階建てのマンションが浮かび上がる。ゆるやかな光のなか、横に五軒の扉が整然と並んでいる。    
 いつも何故か懐かしく見上げながら通っていた。

 二階の右から三軒目の扉が開き、男が一人出てきた。ふと、立ち止まった私に右手を上げている。父だ。こんなところに住んでいた。私は目を凝らしもう一度見据えた。やはり、少し照れたような顔をして父がそこに立っていた。
「どこにいくの」
 思わずでた言葉。
「お前に会いに来たんだ」
「珈琲でものむかい?」
 昔のままのおだやかな口調だった。
 マンションの下の小さな喫茶店に入り、窓際の椅子に座った。父は、嬉しそうだ。
「ここの珈琲、意外に美味いんだ」
 珈琲はやはりブラックだった。ゆっくりと味わい口にする飲み方も懐かしい。私が珈琲を好きになったのは、父に連れられ外出した時、いつも喫茶店に寄ったからだった。なんだか、それが日常から外れているようで、とても楽しかった。ちょっぴり、おとなになった気分だった。
「変わらないね、元気だったと聞くのも変だけれどね」
 少し照れくさく、笑いながら珈琲を口にする。
「そうだな」
 父も左手に持つ珈琲カップを見ながら苦笑する。
「何か用事があった?話したいことでもあったの」
「別に、ふと思いついたんだ」
 遠い目をして答え、美味しそうに珈琲を飲みほす父。
「じゃあな」
 と、マンションの扉の向こうに消えた。
 七年前に逝った父は相変わらず無口だった。
 あそこに父が住んでいる。扉を見上げていると、再び扉が開き塾のカバンを持った男の子が飛び出し、私には目もくれず走り去った。
 あれからも、毎日マンションの前を歩いている。体重は少しもかわらない。

扉 中井 ひさ子
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

 【関連情報】

 詩集 「そらいろあぶりだし
 作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
 定価 : 2000+税 
 発行 : 土曜美術社出版販売
   〒162-0813 東京都新宿区東五軒町3-10
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【寄稿・詩集「そらいろあぶりだし」より】ハッピーエンド 中井ひさ子

 どうしても来れなかった渋谷に来ました。
 夕日を滲ませた雑踏は私をもっと独りにします。気付くと貴方といつも待ち合わせた喫茶店の片隅に座っていました。

 奈良から東京に出たての私は友達に誘われるまま、貴方の写真展「海兵隊について」を見ました。歴史や政治的なことは解らなかったけれど、兵士たちの瞳に惹かれました。

 少年兵士のキラキラ光る目、老兵士の濡れて光る目が、私の中にある目と重なり合ったのかもしれません。
 次の日どうしても、もう一度兵士の瞳に逢いたくてそっと見に行き、貴方に見つかり何故かうろたえた私が思い出されます。

 最初のデートで半年後に仕事の為二年間スペインに行くと聞かされ、私は顔を上げることができませんでした。時間のある限り逢いました。

 身振りよく貴方は「ニカラグアの荒野で小屋の中に入ったら、一面大トカゲが張り付いていて慌てて逃げ出した」ことなどをお酒を呑みながら話し、笑わせてくれました。
 スペインからの手紙で、地下鉄の中で君とそっくりな女の人に出逢い、どきりとし感動しましたとの言葉に、ただただ嬉しく何度も読み返しました。
 また、昨日は何十キロメートルも走ってから、忘れ物に気付きホテルに引き返しましたに、一緒にため息をつきながらも、顔がほころんでしまいました。 
 なのに、貴方はスペインからポルトガルに行く道で事故に遭った。愛用のライカと共に。
 写真集「スペインの鼓動」を残して。

 貴方の電話番号消えません。でも、押せません。鳴り続けるベルの音が恐いから。
 外の風がはいって来るたびに振り返っています。
「恋はハッピーエンドでなければだめだよ」
 深い目をして、いつもさらりと言ってくれました。
「やあ、ごめん、ごめん、待たせて」
 そのドアーを開けてください。
 黒皮の椅子も木のテーブルも変わっていません。
 

ハッピーエンド 中井 ひさ子 縦書き・PDF

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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 詩集 「そらいろあぶりだし
 作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
 定価 : 2000+税 
 発行 : 土曜美術社出版販売
   〒162-0813 東京都新宿区東五軒町3-10
    ☎  03-5229-0730
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