寄稿・みんなの作品

【寄稿・詩集「未完の風景」より】 送り火=神山暁美 

六日 九日 十五日 と

忘れてはいけない日が三日もある八月

なのに 海も 山も 町も 

昼も夜も 遺された者たちの泰平のざわめき


風化させてはならない…と

語り継がねばならない…と

生きぬいた老体にその時の声を強いる人びと

戦争を知らない耳にどれほどがつたわるのか



戦場にいてすべてをその眼に映した父が

戦闘の記憶を自らの口から語ることはない

戦友との想い出話には笑みさえうかべて

戦地で食した南洋の高価な果物を恋しがる


私はそんな父を好きにはなれなかった

夜空に咲き乱れる火の花 ひびきわたる歓声

川面に裾を曳き逝く 流し灯籠のあかり

にぎわう月おくれの盂蘭盆会


人間魚雷「回天」を搭載したまま

日本海で敗戦の報を受けた父の駆逐艦は

いまも 福島県小名浜の港の先で

防波堤となって国を護っている


過去を洩らす戦傷の痕をこらえながら

しずかに送り火を見据えるうしろ姿

昭和二十年のこの日も

山は文字を描いて燃えていたのだろうか


『未完の風景』より 「送り火」 PDF・縦書き

【孔雀船 95号 詩】  源氏車  紫 圭子

黒い地あきの大島紬

白い糸が黒地とかさなって

かすかに銀ねずみの光沢を浮き上がらせる

柄のぼかし模様 日輪のような

牛車の輪を三つ置いた柄が飛び石みたいに浮かんで

その濃淡の距離がこころをひろげにくる


(源氏車の芯から八本骨の輻が放射状に円をささえているかたちです

でも八本骨の一つがぼかして消えているのでそこに接する円もみんな

欠けています


そのひとの眼の奥には夕陽が映っていた

糸を織りながら

夕陽に車をかさねていたのだろう


この世の車争い

諸々の六条御息所と葵の上の車たちを

欠けた模様の入り口から夕陽に吸いこませて

そのひととわたくしは

遥かな

轍の

水脈を手繰りよせては

眺めている


黒い地あきの大島の

裏地は赤

袖を通すと

島唄がひびいてくる


源氏車 PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船 95号 詩】  魔物のノート 冨上芳秀

兄さん

写真を撮らせてくださいな

この子の七つのお祝いに

人を呪わば穴二つ

あなたの二つ穴をふさぎたい



少女にふさわしくない

塞ぎの虫を呪って

ウサギは駆けていった

生活に疲れた老女は

穴に入ったウサギの後を追って

ウナギのように

ぬめりとすり抜けて行った


穴の向うは別世界の月世界

齧歯類が可愛い前歯を見せて

人参を齧っています

虹を渡ってわななく思いを


渡月橋

トゲトゲしく

棘の増したサボテン女の

ラテンのサルサ


さる差しさわりの

あるいは何を

さらしの猿股事件

真相をさぐると

恥晒しの笹の葉

サラサラと

桜咲くササラ踊り


サザエのつぼ焼き

焼きシイタケ

虐げられたメシアのメシヤ


おい、そこの飯屋で

一杯やろうかと

兄さんはやけに気安く

私を誘ってくれましたが

これも気休め

骨休めと

酒を飲みながら

私を慰めてくれたのも

魔物の女の兄さんの

深い企みが

あったからですね


魔物のノート  PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船 95号 詩】  続・夕霧の墓 望月苑巳

夕霧のまぼろしふりしきって

擬宝珠がてらり

橋は渡す

息は渡す


お兄さまはいつ帰られましたの?

ほれ

朝もすっかり暮れて

手向けの花

すでに萎れましたわ

それだけではるは

つめたくあさい

目覚めを

求めていましたのよ


手水はぬらし

墓にぬらし

愛でて

さくら散らす


兄さまは涙に枯らすのですか

六条の辻から

読経が跳ねて

かりがねのつばさに雪の名残が

ほれ

兄さまこの道は

戻れない


夕霧の怨み

二度とできない影踏み

愛し

源氏物語のページ

夕霧をまたかすみ

つつみ隠すのですね

続・夕霧の墓  PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船 95号 詩】  続々・夕霧の墓 望月苑巳

つつみ隠すのですね

それから

滅びの音色へ

肩は寄せて

いみじくもあわれ

寄せては返すあわれ


兄さま、新しい館は慣れましたの?

庭の梅を春が匂うまで

月の光へ誘うとは

いけません。

だれが問いましたの?

はだれ雪も消えて

墓まわりには淋しく輝いています

兄さま、ここから

足音を枯らして祈りましたの?


それから

滅びの音色へ

梅の香は添えて

帰りましたの?

誰もがうるおう

春へなだれこんで

ぽつんと

叫びながらぽつんと

泣きながらぽつんと

沈まねば

梅の庭へ

兄さま、さびしゅうございます


夕霧さまの館が燃えています。

続々・夕霧の墓  PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船 95号 詩】  愛しきもの 藤井 雅人

舞妓が歩く

――そう 舞妓さんは歩いてはるんどす

こともなげに 街路のうえを

二十一世紀の思いを煩う人々にまじって


数百年を跳躍して

なにげなく現在(いま)によりそう舞妓

老いた楠のかたわらに立つ時

彼女は木とおなじ齢になる


花簪はいつしか解け

花びらは宙の迷路をたどり

時の川を流れる花筏に舞いこむ


春の花 風 せせらぎ

あらゆる永久(とわ)に愛しきものらと結託して

たち現れる彼女を どのように迎えようか


だらりの帯の揺れの

柳の枝のようなあてどなさを称えようか

しかし どんな無粋な賞め言葉にも

彼女は白くきよらな面を背けるだろう

――舞妓はただの舞妓どすえ と囁きながら


愛しきもの  PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

奥多摩・榧ノ木山(1485m)=武部実

平成29年10月11日(水)
 
参加メンバー:L武部実、針谷孝司、開田守

コース:峰谷橋~ノボリ尾根~榧ノ木山~榧ノ木尾根~倉戸山(1169m)~倉戸口バス停


 10:00、真っ赤に塗られた欄干の峰谷橋にあるバス停を出発。30分位歩けば、コンクリート階段の登山口があるはずだ、と探しながら舗装路を歩いた。
 階段は、道路と直角にあると思っていたが、実際は道路と並行に設置してあり見逃してしまう。峰谷まで行って気づき引き返す。30分位のロスタイムか。

 コンクリートの階段を登ったら、すぐに急登だ。
 足場は落ち葉等で軟らかいため踏ん張りがきかず、ずるずると後退しそうになることもしばしば。四つん這いになりながら必死に登ること約30分。まさに悪戦苦闘が続いた。
 このあとも急登はあったが、一番きつかったのは、やはり最初の登りだった。


 途中で昼食を摂り、登りを再開してすぐのところに、熊の引っ搔き跡のある木と糞を見かけたので熊鈴を取り出す。
 そういえば何年か前に、登山家のYさんが熊に襲われたのも、この近くだったはずだ。
 14:10に鷹ノ巣山と倉戸山の分岐に到着。ここが榧ノ木山のはずだ。ところがいくらさがしても山頂の標識が見つからない。三角点が無い山で、標識も粗末なブリキ缶に書いてあるだけなので、落ちてしまったのか不明だ。
 後で、このコースを通った人のブログを見たら同じように標識が見つからなかったとなっていた。とりあえず山頂に行ったということにして、時間もないので先を急ぐ。

 榧の木尾根は緩やかな下りのコースだが、ガスが出てきて見通しはあまり無く、道を間違いないように慎重に歩く。すると後ろからマウンテンバイクに乗った男性二人組が追い抜いていく。あっと思う間もなく、ガスの中に消えていくのだった。

 15:10倉戸山着。山頂は広々としているが、見通しは無い。マウンテンバイクの二人組に再会し尋ねたところ、鴨沢に車を置いて石尾根から倉戸口まで行くということだ。
 鴨沢の登りはキツイが、そこを過ぎればあとは降るだけだ。しかし岩場はないのだろうか。結構大変そう。当日会った登山客は結局この二人組のみ。

 15:20バイク組が出発し我々も出発。倉戸口バス停まで降るだけ。最初のロスタイムを取り戻すべく、バスの発着時間に遅れまいと必死だ。
 16:10バス停に到着。16:13発のバスにすれすれセーフだった。

 今回は多摩百山の2座を縦走した山行であったが、意外ときつくて大変な山であることがわかった。それと榧ノ木山の山頂が不明だったことが心残りであった。

  ハイキングサークル  「すにいかあ倶楽部」会報№223から転載

北アルプス・黒部五郎岳(2924m)=栃金正一

1.期日 : 2019年7月25日(木)~29日(月)4泊5日

2.参加メンバー : L関本誠一 開田守 金子直美 栃金正一

3.コース
 7/25日 移動日 松本駅(バス)~新穂高温泉~わさび平小屋
7/26日 わさび平小屋~鏡平山荘
 7/27日 鏡平山荘~双六岳~三俣蓮華岳~黒部五郎小舎
 7/28日 黒部五郎小舎~黒部五郎岳~北ノ俣岳~太郎山~太郎平小屋
 7/29 日 太郎平小屋~五光岩ベンチ~1,870.6ピーク~折立(タクシー)~亀谷温泉~富山駅

7/25 今日は移動日で、松本駅からバスに乗り、平湯温泉でバスを乗り換えて、新穂高温泉で下車した。ここから林道を歩き16:45に、わさび平小屋に到着。小屋には団体がいて混雑していたが、部屋もトイレもきれいで、お風呂もあり快適だった。


7/26 8:00に夜行バスで来た、金子さんと合流し、わさび平小屋を出発。天気は良く、秩父沢、イタドリヶ原を通過し、12:30には鏡平山荘に到着した。

 昼食後は、鏡池からの槍ヶ岳は雲にかかり見えなかったが、夕食後は、雲がとれて槍ヶ岳、大キレット、西穂までの穂高連山が展望できた。


7/27 5:45に鏡平山荘を出発する。天気は良く、快適に登る。途中、槍ヶ岳や北穂岳、滝谷、奥穂・ジャンダルム等の迫力ある岩稜が見られる。
 6:30に弓折岳分岐に到着。ここからは、平坦な道が続く、途中雪渓を横断し、しばらく行くと、7:55に双六小屋に到着した。

 休憩後、今回山行の最高峰である2.860mの双六岳を目指して出発する。北の方には、鷲羽岳・水晶岳、南の方には、笠ケ岳がクッキリと見える。広大で見晴らしの良い道を登り切ると9:25に双六岳に到着。



 山頂からは、今回の目標である黒部五郎岳が堂々と見える。カールには雪が少し残っている。丸山、三俣蓮華岳を登り、12:45赤い三角屋根のある黒部五郎小舎に到着した。


7/28 5:40黒部五郎小舎を出発。残念ながら雲で黒部五郎岳はみえない。カールの壁を登り肩にザックをデホ゜し、8:20黒部五郎岳に到着。ガスで残念ながら景色は楽しめなかった。

 三角点を確認し、記念写真を撮り下山する。北ノ俣岳を登り、右手に雲の平を見て、周囲に白いハクサンイチケ゛が見渡す限り群生している中を行く。すばらしい景色である。途中、太郎山を登り、14:35に太郎平小屋に到着。

7/29 6:10太郎平小屋を出発。途中、五光岩ベンチ、1870.6ピークを通過し、9:45に下山口である折立に全員無事に到着する。
 予約しておいた、タクシーで亀谷温泉に入り、12:30に富山駅に到着。駅前の回転寿司店で4泊5日の長い山行の反省会を行った。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№239から転載

電気がついた!  黒木 せいこ 2019 年 10 月

 近 年 に な い 大 型 の 台 風 らしいので、 我 が 家 で は 雨 戸 を 閉 め たり 、 庭 の 飛 び や す い 鉢 を 室 内 に 入 れ た り 、 台 風 へ の 備 え を し た 。

 風 雨 は 夕 方 か ら し だ い に 強 ま り 、 夜 に な る と 暴 風 雨 と な っ た 。

 家 の サ ン ル ー ム の ガ ラ ス に 、 庭 の 木 の 枝 が 勢 い よ く 当 た る 。 時 おり 、 ゴ ー ッ と い う 音 が し て 強 風 が 吹 き 、 ミ シ ミ シ と 家 が 揺 れ る 。「 家 は 大 丈 夫 だ ろ う か 」 眠 れ ぬ ま ま 不 安 な 夜 を 過 ご し て い る と 、夜 中 12 時 ご ろ 、 突 然 電 気 が 消 え た 。 真 っ 暗 な 中 、 懐 中 電 灯 を 探し た 。

「 こ ん な 強 風 な の だ か ら 、 電 線 が 切 れ る こ と も あ る だ ろ う 。 明 日に な れ ば 台 風 も 去 り 、 復 旧 す る だ ろ う 」 私 は そ う 軽 く 考 え て いた 。

 停 電 は 2011 年 3 月 の 東 日 本 大 震 災 後 の 計 画 停 電 以 来 で あ る 。
 あ の 時 は た っ た 4 時 間 だ っ た が 、 何 も で き ず 、 寒 い 中 毛 布 に く る
ま っ て 過 ご し た の を 思 い 出 し た 。

 今 度 は 夏 だ が 、 ク ー ラ ー を 入 れ る こ と もで き ず 、 窓 も 開 け ら れ な い の で 、 寝 苦 し い夜 だ っ た 。

 2019 年 9 月 8 日 、 台 風 15 号 が 関 東 地 方 を 直 撃 し た 。 夜 が 明 け 、 窓 を 開 け て み る と 、 庭 の 木 々が 折 れ て 散 乱 し 、 サ ン ル ー ム の ガ ラ ス に は飛 ん で き た 落 ち 葉 が 至 る と こ ろ に 張 り 付 いて い た 。

 外 へ 出 て 少 し 歩 く と 、 大 き な 木 が 折 れ て住 宅 に 倒 れ て い る 光 景 が 目 に 入 っ た 。 テ レビ は 映 ら な い の で 、 ス マ ホ か ら だ け の 情 報だ が 、 関 東 地 方 、 特 に 千 葉 県 に 被 害 が 出 て い る ら し い 。

 近 く の 高 速 道 路 は 通 行 止 め で 、 一 般 道 は 大 渋 滞 。 電 車 も ス ト ップ し て 、 ど こ へ も 行 く こ と が で き な い 。 ま さ に 陸 の 孤 島 で あ る 。

 そ れ で も 、 今 ま で の 経 験 か ら し て 、 こ ん な 状 態 は 丸 一 日 も あ れ ば解 消 す る だ ろ う と 思 っ て い た 。

 ラ ジ オ で 聴 く 東 京 電 力 の 会 見 で も 、 最 初 は 1 ~ 2 日 の う ち に 復旧 す る だ ろ う と の 予 測 だ っ た 。 夜 に な り 、 真 っ 暗 な 中 、 外 の 灯 りに 気 が つ い た 。 窓 を 開 け て 空 を 見 上 げ て み る と 、 明 る く 光 る 月 が見 え た 。 街 灯 も な い 中 、 や け に 月 明 か り だ け が 目 立 っ て い た 。

 二 日 目 に な っ て も い っ こ う に 電 気 は つ か ず 、 長 引 く 停 電 の ため 、 水 ま で 出 な く な っ て し ま っ た 。 丸 二 日 経 っ て 、 も う 冷 蔵 庫 の中 の 氷 も 保 冷 剤 も す べ て 役 に 立 た な い 。 冷 蔵 庫 内 の 生 も の は す べて 処 分 し な れ ば い け な い 。 ト イ レ は 風 呂 に 溜 め た 水 で 流 し た 。 食事 は カ ッ プ 麺 な ど で 済 ま せ た 。
テ レ ビ が 見 ら れ な い な ど の 生 活 の 不 便 さ は 何 と か 我 慢 で き たが 、 暑 さ で 夜 も 熟 睡 で き ず 、 精 神 的 に か な り 参 っ て い た 。

 近 所 の 人 た ち の 中 に は 都 内 の 知 り 合 い の 家 へ 行 っ た り 、 ホ テ ルに 宿 泊 す る 人 も い た 。

 停 電 三 日 目 と な り 、 心 身 と も に 疲 労 し て き た 。 水 は 出 る よ う にな っ た が 、 電 気 は ま だ だ 。 ス マ ホ を 充 電 す る た め に 、 車 で 30 分ほ ど の コ ン ビ ニ を 利 用 し た 。 こ こ は 断 水 だ が 、 電 気 だ け は つ い てい た 。 こ の こ ろ 、 道 路 は 開 通 し て い た が 、 今 度 は ガ ソ リ ン ス タ ンド へ の 渋 滞 が 始 ま っ て い た 。 暑 さ の た め 、 車 内 で 過 ご し て い る 人が 多 く な っ た か ら だ 。

 ラ ジ オ か ら の 情 報 で 、 被 害 の 状 況 が だ ん だ ん わ か っ て き た 。 停電 は 千 葉 県 内 で 30 万 戸 近 く に な っ て い た 。 屋 根 瓦 が 飛 び 、 多 くの 人 た ち が 雨 漏 り で 困 っ て い る と 聞 い た 。 私 は 家 の 被 害 が な か った だ け で も 幸 運 だ っ た 。 そ う 考 え て 我 慢 し よ う と 思 っ て み る も のの 、 暑 さ の た め 、 う ち わ を 手 放 せ ず 、 う ん ざ り し て い た 。


 以 前 住 ん で い た 海 沿 い の マ ン シ ョ ンを 見 に 行 っ た 。 自 宅 の 部 屋 は 大 丈 夫 だっ た が 、 自 宅 の す ぐ 下 の 部 屋 は 、 ガ ラス が 粉 々 に 割 れ て い た 。 こ こ に 住 ん でい れ ば 、 も っ と 大 変 な こ と に な っ て いた か も し れ な い 。

 停 電 三 日 目 の 夜 に 、 再 び 東 京 電 力 の記 者 会 見 が 行 わ れ た 。 電 気 が つ く の を今 か 今 か と 待 ち 望 ん で い る の に 、 発 表 で は 、 被 害 が 思 っ た よ り ひ
ど い の で 一 週 間 か ら 十 日 ほ ど か か る と 言 う 。 私 は 絶 望 し た 。

「 こ ん な 生 活 が 続 く な ら 、 ど こ か へ 逃 げ 出 し て し ま い た い 。 明 日
こ そ は 友 人 の 家 に で も お 世 話 に な ろ う 」 
 そ う 思 い な が ら 、 う ち わ を 持 っ て 布 団 に 入 り 、 再 び 寝 苦 し い 夜が 始 ま っ た 。 数 時 間 経 っ た 時 、 か す か に 何 か の 電 子 音 が し た 。 それ は ど こ か で ス イ ッ チ が 入 っ た よ う な プ チ ッ と い う 小 さ な 音 だ った 。 そ れ と 同 時 に テ レ ビ の 電 源 の 赤 い ボ タ ン が 光 る の が 見 え た 。

「 電 気 が つ い た ! 」
 私 は 思 わ ず 叫 ん だ 。 電 気 が つ く こ と が こ ん な に も 嬉 し い と は 思 わな か っ た 。 思 わ ず 家 の あ ち こ ち の 電 気 を つ け て 回 っ た 。 深 夜 に もか か わ ら ず 、 隣 り 近 所 の 家 に も 、 次 々 と 灯 り が つ き 始 め た 。 皆 、考 え る こ と は 同 じ な の だ ろ う 。

 私 の 家 の 近 く に は 大 き な 救 急 病 院 が あ る 。 そ の 病 院 の 自 家 発 電が 切 れ そ う に な っ た た め に 、 こ の 地 域 の 停 電 が 早 く 復 旧 し た と いう 話 を 、 あ と に な っ て 聞 い た 。

 結 局、 停 電 は 丸 三 日 、 断 水 は 一 日 だ っ た 。 今 の 便 利 で 快 適 な 暮 らし の ほ と ん ど は 電 気 に 依 存 し て い る 。 電 気 や 水 の あ り が た さ 、 それ を い つ も 守 っ て い る 人 た ち の あ り が た さ を 、 今 回 の 台 風 で イ ヤと 言 う ほ ど 思 い 知 ら さ れ た 。

【元気に百歳クラブ】あのころ 森田 多加子

 窓ガラスは、ところどころなくなっているし、残っていてもひび割れていたりする。そこから入ってくる風は、廊下を吹き抜ける。
 その廊下に、七人くらいだったろうか、小学校四年生の私たちは、窓を背にして、横並びに立っていた。いや、立たされていたのだ。

 第二次世界大戦の終盤に入ったころだった。こんな小さな町にも、敵機はいつやって来るかわからない。
 昼は偵察機らしきものが飛び、空襲になるのは夜が多かったと記憶している。いつ死ぬかもわからない毎日は、子どもにだって伝わってくる。あまり楽しいこともなく、それでも毎日学校に通っていた。

 学校では、授業が終わると掃除が始まるが、それも軍隊のように、規律正しくがモットーだ。
 この日の私は掃除当番だった。教室の掃除が終わると、みんなで板張りの廊下を雑巾掛けする。誰が言い出したのか、四人が横並びに一列になり、腰を高くして「よーい、どん」で、まっすぐに進む。
 ぶつかり合いながら教室の端まで来たらUターンする。
 廊下を雑巾掛けしながら必死に突き進む。思わず大声がでる。首をすくめながら、口に手をもっていき、「しー(静かに)」と言いながらも、みんなにこにこ顔になっていた。

 掃除が終わると整列して班長が「ありがとうございました」と号令をかけ、みんなが復唱して解散する。そういう『決まり』を、きちんと守るのが当時の小学生だった。

 その日は、廊下を雑巾がけしながら「運動会」になったので、気持ちも高揚していたからだと思う。班長だった私は、笑いがとまらないまま、整列後の挨拶で「ありがとうございませんでした」と、何の意味もなく言った。
 当番仲間は、大声でそれに和した。


 隣のクラスの佐藤先生が、笑いながら出てこられて、「あら、あら」と言って、教員室の方に行かれた。
 翌日の朝礼の時間、クラス担任の田中節子先生が、速足で教室に来られた。頭から、顔から、湯気が出そうな雰囲気だ。教卓の前に立つやいなや、
「きのうの掃除当番の班長さんは誰ですか?」
 私は、おっかなびっくりで立ち上がった。
「掃除後の挨拶を言ってごらんなさい」
「はい……、ありがとうございました」
 すかさず先生からの言葉、
「昨日、そういいましたか?」
「……」
「何といいましたか?」
「……」
「ありがとうございませんでした、とは何ごとです」
 烈火のごとくという言葉があるが、まさにそれだった。

 田中先生の顔は、湯気を通り越して、炎のように真赤だった。もともと明るい笑顔を見せたことのない先生だった。おかしい時は、口をちょっと歪めて笑う顔しか覚えがない。
 そんな田中先生からの雷だ。怖かった。内容は全く記憶にないが、戦地の兵隊さんに申し訳ない、というようなことだったと推測できる。

「昨日の掃除当番は、全員起立。廊下に出なさい」
 顔を見合わせながら教室から出て、廊下に横一列に並んだ。立たされたのだ。
 国民学校(小学校)に入って以来、私は、先生に怒られたことがなかったので、この屈辱は耐えられなかった。しかし、この日の田中先生の怒りは尤もだ。私が大事な規律を乱したのだ。班のみんなに悪いことをしてしまった。
 
 田中先生は三十代だった。その時代には、まわりにたくさんいたフツーの大人と同じように、ただ、おかみ(政府)に言われる通りに、必死で生きていた真面目な国民であったと思う。
 当時の経済的にも、精神的にもゆとりのない殺伐とした生活の中で、「お国の為に」というスローガンを信じて、まっすぐに生きていたに違いない。

 現在、日本人のほとんどが、あの忌まわしい戦争を知らない世代になった。体験していても、幼少のことだ。記憶が覚束ない人もいるだろう。
 少しは覚えていると思われる人は、八十歳以上になった。映画やTVドラマで戦争のむなしさを描いても、どれだけの人が自分のこととして捉えることが出来るだろう。

 知り合いのおばさんが、爆風で屋根の上に吹き飛ばされて死んでいた。同級生のアヤちゃんも死んだ。私は決して「あの頃」を忘れない。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集