令和はもはや六年が経つ。下田尚嶽「七言絶句」の作品からふりかえる(1/3)
昭和は戦争つづきの激動の時代だった。一変して平成はいろいろな出来事もあるが、戦争から解放されて平坦であった。
令和は六年目に入った。世界を見渡せば、ヨーロッパ、中近東の戦争、さらにアジアまで中国・台湾の緊張が高まっている。わが国はことし正月早そうから、まさかという大惨事がおきた。
先行きは嫌な予感もするが、戦争には巻き込まれないでほしい。ただ願うだけでなく、国民が戦争をしない代議士を選ぶべきなのだ。
明治以降の改元は、天皇の「一世一元」制である。まだまだ先のある話しだが、令和の先の天皇は男系に拘泥するのか、あるいは女性天皇が誕生するのか。国民の関心は高い。選挙の焦点になってほしかったな。
第二次世界大戦の終結において、日本はポツダム宣言(13の条件)を受け入れた。そのなかの一つには、天皇に権限が集中する軍国主義を排し、民主的な国民主権の政府をつくるという条件があった。
一般にいわれる日本は無条件降伏ではない。(ドイツはヒットラーが自殺し無政府になったから、無条件降伏で、東西ドイツが分断された、占領軍による直接統治)。
日本の場合は13の条件を受け入れて降伏した「条件降伏」である。けっして無条件降伏ではなかった。国会も、日本人による政府も、そのまま継続できた。アメリカを代表する占領軍の立場からすれば、13の条件を日本が成すまで見守る間接統治だった。
そのうえで、天皇親政を排除し、新たな国民国家として、日本人の手による日本国憲法ができた。同時に、民主主義の理念から「国民がみずから皇室典範を変更できる」ことになった。これも戦後の日本政府がみずからつくった。当時の昭和天皇は現人神(あらひとがみ)でなく人間宣言をなされた。
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さかのぼれば、明治二十二年に、伊藤博文による大日本帝国憲法と皇室典範が同時に制定された。皇室に関する規定はすべて皇室典範に組み入れられた。その結果、帝国議会(国民の代表)は皇室に関する事項については、まったく関与することができなかった。まさに「天皇は神聖にして犯すべからず」であった。
しかし戦後、この旧皇室典範は廃止された。新「皇室典範」(昭和22年法律第3号)は名称をそのまま残しているが、神道的儀礼部分を削除して簡素化された。内容は皇位継承、皇族の範囲、摂政(せっしょう)、成年・敬称・即位の礼、皇族が結婚するときの手続き、皇籍離脱、皇室会議の仕組みなどについて定めている。
この皇室典範はふつうの法律とおなじ扱いである。国会で変更できるのだ。国会の代議士が過半数をしめれば、皇室典範の改定で女性天皇も可能になるのだ。(憲法改定のような2/3というハードルの高さはない)。
つきつめれば、政治家(代議士)でなく、国民一人ひとりが天皇を決められるのだ。
こんな思慮をしているさなかに、「のこぎりキング下田」さんから、漢詩を四点ちょうだいした。七言絶句だった。
下田尚嶽作「祝賀恩列の儀に題す」(しゅくが おんれつのぎに だいす)
晴朗皇居爽気催 光輝宝冠興佳哉
歓迎祝福天恩洽 歓正是令和幕開
祝賀パレードは晴天だった。すがすがしい雰囲気のなか、皇居・宮殿より赤坂御所へ出発された。秋の強い日差しに照らされた皇后雅子さまのティアラが燦然とかがやき、とてともうつくしい。
沿道を埋めつくした観客者は、日の丸をふって祝福する。天の恩恵で万民が福を受け広くゆきわたる。
天皇・皇后両陛下は、国民に感謝のこころを恩顔で応える。
まさに令和の幕開けを披露した祝賀パレードの儀となる。
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「関連情報」 七言絶句(しちごんぜっく)とか、五言絶句(ごごんぜっく)とか、学校の国語で習ったな。もうわすれたな。何だったけ......? そうだ、一句あたり何文字か、それを数えればよいのだ。句のなかに七文字の漢字があれば、七言絶句だったな。