【寄稿・エッセイ】 意地悪 = 筒井 隆一
私の持って生まれた性格なのか、私たちの育った時代や環境がそうさせたのか、いじめにあったという思い出はない。
小中学時代には、いろいろないたずらをした。教室に出入りする引き戸に黒板拭きを挟んで、入ってくる教師の頭に落としたり、死んだトカゲを出席簿に挟んで、それを開いた若い女性教師を失神させたり……。他愛のない悪戯はずいぶんやった。しかし、たちの悪いいじめや意地悪は、したこともされたことも、記憶にないのだ。
文部科学省から、いじめの定義が示され、現場の教師にこれを防ぐ通達、指導が出されるなど、私たちにとって、考えられない時代となったものだ。
その私が、何と70歳を過ぎて、いじめを体験することになった。私にとっては陰湿ないじめだが、世間から見れば、ただの意地悪かも知れないが……。
「この生姜を、みじん切りにしておきましょうか」
「……」
「火加減はもう少し強い方がいいですね」
「……」
一卓4人、8卓で32人が、『野菜料理の会』で月に一度、料理教室に通う。その教室でのやりとりだ。
何を聞いても返事がない。対話にならない。
この教室は、1年間を前期、後期に分けている。5月~10月、11~4月の二期、1年間12回でひと通り学ぶ仕組みだ。
私を除く三人の女性は、前期の半年間、既にこのクラスで過ごしている。私はその三人のグループに組み入れられ、後期からスタートした。
前期から一緒にやっていた三人が、組んでいじめに掛かってきたのだろう。申し合わせたように無言を極め込んでいる。三人組を仕切るのは、アラフォー、見るからにボスという感じである。
考えてみれば、初めて出会った、育ちも環境も違う、見ず知らずの四人の生徒だ。お互い気を遣いながら一つの料理テーブルを囲んで、仲良く楽しくやること自体が難しい。
『お肉料理』『お米料理』『おもてなし料理』など、コースが変わり、都度メンバーが変わっても、今まで十数年、何ごともなくやってこられた方が、不思議なのかも知れない。まして変なおじさんが一人入ってくると、意地悪してみたくなるのも、分かるような気がする。
初回に、顔を合わせて挨拶した時はまともだった。ただ、「おじさんどこまでやれるの?」という、上から目線を感じた。
料理をつくり始めると、こちらが手早く包丁を捌いたり、タイミング良く出汁をとったり、手際良く作業を進めていくのを見てびっくりし、ひとついじめてやれ、ということになったのだろう。
相手の作戦は、一言も口をきかず、こちらを全く無視することのようだ。
決められた約2時間の間に、3品を仕上げなければならない。四人で打合せし、役割分担、手順を決めて作業にかかるのだが、ボスは私だけには一言も口をきかず、他の二人に指示し、三人でどんどん作業を進めていく。こちらの問いにも、一切ノーコメントだ。
一言いって何か返ってくるならよいが、何もない。議論を吹っ掛けるわけでもない。無言の意地悪だ。私の戸惑っている反応を楽しんでいる。
子供のけんかで、殴ったり、噛みついたり、あるいは理屈でやりこめたりするのは、いじめらしいいじめで、納得できる。口を聞かない(聞いてもらえない)ことが、いじめとして最も効果があるのだな、ということが、初めて分かった。
この料理教室には、全国、全クラスに、様々な考えや個性を持ち合わせた人が参加しているだろう。特に最近は、自己主張を強く打出したり、一方では他人との関わりが極度に苦手な人も増えている。
どの様な事情であれ、テーブルの雰囲気やメンバーのことで不快な気持を持つことは、料理を学ぶ前に楽しさも半減する。教室を預かる、マネジャー、先生、助手の三人は、全体を見渡しながら、生徒が気分よく実習しているかをチェックしている筈だ。
ささやかな体験を通じて、いじめの心理が分析できた。遅まきながら新鮮な初体験をした。
翌月からは、テーブルの組み合わせが変わっていた。
2015年1月 エッセイ教室・提出作品