A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 新生ボロ辞書 = 吉田 年男

 背表紙が取れてしまった。何とかしなくてはと思いながら、今も酷使している。昭和三十年に発行された、鈴木香雨先生の初版「五体字彙」だ。
 永く使っているので愛着がある。背表紙が取れた時に、これに代わる辞書はないかと、何軒かの書店を探しまわった。

 神田の古書店街を歩いていたとき、同じ先生の「新選 五體字艦」という辞書が目にとまった。目次、索引などの形態が、「五体字彙」とそっくりであった。
(これはいけるぞ)
 希望に胸を躍らせながら、ページをめくった。肝心の書体をみると、
(あれ! 雰囲気が違う)
 「五体字彙」をコンピュータグラフィックで写し取ったものか? それとも別の書き手が書き写したのか? 字形は似ているが、毛筆特有の線のキレ、線質、脈絡、動きなどが違ってみえる。

 この時、初版本と同じものを手に入れるのは不可能か? と悟った。

 手元にある「五体字彙」をみると、ページがとれはじめている。取れてしまったページの角が少しずつまるまってきている。これ以上酷使していると、五体書の部分も擦り切れて見えなくなってしまう。

 ボロ辞書であるが、私にとって愛着があるだけでなく、今ではなくてならない大切な辞書になっている。修復できるものなら直して使いたい。修理してもらえそうな製本所を、ネットで必死に探した。
「背表紙が取れてしまった辞書ですが、修理していただけませんか?」
 小林製本というホームページをみつけて、懇願のおもいをこめて電話をかけた。

 電話に出た女性が、小林という男性に取り次いでくれた。
「私どもでは、修理はやっていないので、知り合いの製本所を探してみましょう」
 と温かく対応してくれた。

 数日後、論文などを専門にしている早稲田鶴巻町の製本所を紹介してもらえた。大切にしている辞書のことを、電話での短い会話の中で、理解してもらえたことがことのほかうれしかった。

 背表紙が付いていた部分のカサカサになった糊、製本用の白い糸がむき出しの無残な姿になった辞書を、ページに抜けないかなど、念を入れて点検をした。
 バラバラにならないように揃えて表紙の上から太めの輪ゴムでしっかりと押さえた。新しい茶封筒に辞書を入れて、紹介してもらった製本所へ逸る気持ちを抑えながら出かけた。
 
 製本所は、早稲田通り鶴巻町西交差点の近くにあった。この辺りは同じような製本所が沢山ある。間違えないように看板を確認して紹介された製本所へ入った。室内は暖かかった。
 暮れも押しせまっていたせいか、四~五人の作業着を着た人たちがせわしなく動き回っていた。

 社長に挨拶をして、持参した辞書を見せた。
「小林さんから話は聞いています。お持ちになった辞書を作業台の上に置いてください」
 穏やかで温かみのある声であった。
 辞書を出がけに用意した新しい茶封筒から丁寧に取り出して、少しでも印象がよくなるように、辞書の向きを考えながら作業台の上に慎重に置いた。


 作業台に置いた辞書を注視しながら、しばらくのあいだ沈黙が続いた。もしかしたら断られるのかな? 緊張して社長の言葉をまった。
 社長が、辞書を手に取って、破れかかったページをめくりはじめた。一呼吸おいてから、
「お正月明けまでに直しておきましょう」
 暮れの忙しいときに、ボロ辞書の修理を引き受けてくれたのだ。 

 嬉しい。年明けに新生ボロ辞書に会える。感謝の気持ちがこみあげてきた。 このとき心地よくこころに響いた社長の言葉は、小林さんの紹介があったからに違いない。
 小林さんにもお礼を言いたい。

                        2015年1月13日 エッセイ教室提出作品

「寄稿・みんなの作品」トップへ戻る

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集