【寄稿・エッセイ】 オペラの夜 = 山口 規子
ある早春の夜、急にメトロポリタン・オペラの切符が手に入った。
NY暮らしの我が家から歩いて15分のこのオペラハウスのあるリンカン・センターは、日頃から慣れ親しんだ場所だ。オペラの殿堂(通称メトと呼ぶ)を正面に、左にはNYシテイオペラ劇場、右にコンサート・ホール、やや後ろに芝居を上映する劇場、演劇のための図書館などが広場を取り囲む。
ニューヨーク・フィルもリハーサルの場とし、それを公開する。貧乏学生の私が、あまたの世界的指揮者、奏者、歌手にここで接することができた。本番の何分の一の料金であった。彼らの本番とは異なる素顔が見られるのも魅力の一つである。
メトのチケット・ボックスの前で、学生仲間とどの演し物にするか迷ったりしていると、オペラファンのご老人に声をかけられる。
「このワーグナーにしなさい。彼の作品は壮大な建築みたいなもの。聴くには4時間以上かかるけれど、それに耐えられるのは今のうちだと」とウインクされたりする。
私の好きな場所が地下にある。全盛期の美貌の名歌手マリア・カラスの等身大の肖像画が展示されている。だれもめったに来ない場所で、その華やかなコスチューム姿を見ていると、彼女のソプラノが響いてくるような気がする。
今夜の開演に間に合うように急ぎ着替えに帰り、ぎりぎりにボックス席に座った。オーケストラの音合わせを聞きながら、オペラグラスの度を合わせつつ、客席のあちこちを眺める。
私はこの時間が好きだ。
さあ始まるぞ、と身構えるあの高揚感。ブラックタイの紳士たちが立ち上がって顔見知りに挨拶したり、ロングドレスの夫人たちがちょっと身じまいを直したりする。この頃はジーンズの若者も多いが、優雅な手すりの大階段を降りて来るにはムードに欠ける。劇場そのものが舞台みたいなものなのだ。
と、思っていたら開幕寸前、同じボックス席の椅子のひとつ目掛けて、息せき切って冴えない風体の太り気味の中年男が滑り込んだ。
この劇場では顔見知りとも出会うから、こんな人物が相客ではと、自尊心と虚栄心が疼く。
この劇場では幕開き寸前、場内に吊り下げられた幾つものシャンデリアがきらめきながらするすると上がる。すると、この男はその様をみて「ワァオ!」と声を上げる。初めてここに足を踏み入れたな。私も最初の時、これを眺めて「ワァオ!」と思ったものだが、と、軽く舌打ちする気分で序曲を聴く。
一幕が終わり。同じボックス席に居るのも嫌だと思って、腰を浮かしかけると、声をかけられた。最悪である。
「自分はこのオペラハウスに入ったのも、オペラを観るのも初めてなんです。いつもは劇場の前で切符を売っているんです。もう何年も何年も」ーーああ、この人はダフ屋なんだわーーと、私は心の中でつぶやく。
「しかし、今夜はこの席一枚、どうしても売れない。自分がいつも売っている切符で、どんなものが観られるのか、今夜試してみようってね。貴女みたいなレディといっしょの席で、昇っていくシャンデリアも見た。ゴージャスなステージも観た。一生に一度だけの機会だろうね」
胸に込み上げてくるものがあった。
舞台とはこういうもの。演じる側も観る側も、一瞬の出会いに賭ける。涙がにじんだ。
終演後、「貴女と話せて、オペラをいっしょに観られてほんとうによかった。ありがとう」
私は彼に手を差し伸べた。彼はくたびれたジャンバーで、手をごしごし拭いてから私の手を握った。
リンカン・センター隣接の大学のキャンバスに、早春の花クロッカスが無数に咲いている夜だった。
2015年1月・エッセイ教室の提出作品