【小説・3回連載】 二十八才の頃 (2) 《夢》 = 外狩雅巳
『作者の略歴より』
外狩雅巳(とがり まさみ)さん
15歳から働きました。労働者として六十才まで働きつづけました。その中で労働組合に出会い働く者の幸せを目指して活動に没頭した時期もありました。 読書も好きでした、労働組合に関する書物も読み漁りました。講演も聴きました。
そして二つの壁に突き当たりました。それは「政治と文学」であり「日本革命の展望」でありました。結果として文芸同人会への道に進みました。 働く者が主人公になる国を創ろう! とのスローガンに共感し学習に励みました。
19才で定時制高校に入り更に夜間大学に進みました。そこで、政治闘争に出会いました。日本の政治を変えようと実力闘争を行う「マルクス主義学生同盟」に出会ったのです。
小説・二十八才の頃 (2) 《夢》 外狩雅巳
色のない風景。薄暗い一面の荒野に木枯しが吹き抜けてゆく。風に追われた男の後姿が視界に現れて遠のいてゆく。そしてまた一人、さらにまた。後姿だけの男。どれも皆同じ。風に髪は乱れきっている、服の長い裾が大きくなびいている。同じ後姿の男達が次々に木枯しに追われて荒野の彼方に吹き飛ばされてゆく。
遠くから音がする。何かが聞こえている。人の声なんだろうか。呼んでいるのだろうか。自分も呼ばなくては後姿の男を呼び戻さなくては。見覚えのある後姿。だれだろう、だれだろう思い出せない。
荒野の果てに吹き流されてしまうその男は誰だろう。声が出ない、呼ぼうとするのに声が出ない。気ばかりあせるのになぜか声が出ない。胸が重苦しくて口が開かない。どうしても呼ばなくては呼び戻さなくてはと、自分の中の何かが思いっきり自分を突き動かしている。物音は続く。絶え間なく続きながらしだいに大きくはっきりとしてくる。
現実との境でついに本物の声が出た。自分の声で気持が急速に夢から抜け始めていた。手が動いた。
声に振り向いた後姿の男。その顔が判明するより先にとうとう夢から抜け出ていた。目が覚めていた。
二枚も重ねている胸の布団を両手で押し上げながら目が覚めた。
頭の上の窓ガラス、その向こうに青空と陽光が見えている。物干しの板がはがれかかって風にあおられ壁を打つ連続音が今度ははっきりと聞き取れた。
街の上に広がる冬空にはもう朝の太陽が大分昇り始めている。一瞬のうちに感覚が冴える。
朝だ。今日で今年最後の仕事がある。そうだ会社だ。跳ね起きる。壁に架けた上着を取ろうとしてよろける。腰に来ている。頭の芯も強烈にいたむ。昨夜の酒が抜けていないのだ。
連日の残業に次ぐ残業。砂と鉄粉の舞うボロ工場。体にギリギリまで無理をさせての重労働の日々。
そして時たまの酒樽をひっくり返したような安酒での暴飲。日頃の粗食。体のどこかがイカレ出したのか知れない。ベットリと汗をかいている。胃が痛い。いや気のせいだ。それにしても後味の悪い夢を見たものだ。あの振り向いた男の顔。チラリと見えたような気がする。あれ何となく自分の顔のようだった。そう思いながら明は服を着て部屋を出る。
コートの裾を長く風に流された後姿がアパートから大通りに向うと追いかけるように砂が舞い立ってゆく。
寝乱れた髪が風にいっそう広がって、両手をポケットにいれた前かがみの体を小走りに工場街の方へ運ぶ。
納豆と刻みネギの強い匂いが通りまでただよっている。漬物の匂いや焼魚の匂い。そして味噌汁の湯気まで戸のすき間から立ち昇っている定食食堂。明は思いっきり勢いよく戸を開ける。
「オッス。飲んだな。ボーナスも出んうちから。見切りをつけてヤケ酒でもあおったのと違うか。マイッタ魚は目でわかる。とっくに死んでるぞ」
汁掛け飯を流し込んでいた同じ工場の溶接工が声をかけてくる。
「お互いさまさ。宵越しの金など持ったためしがないのが自慢でね。体だけが資本の俺だ」
その男も大分アルコール臭い。やはり目が死んでいる。定食屋は周辺の町工場へ通う工員達で満席である。立ったままで大急ぎで汁掛け飯をかき込んで工場へ走る。光二は昨夜と打って変わって平気な顔で自分で作った鉄パイプのバーベルを上げ下げしている。
「爪の先までアルコールで染まってるぜ。大分飲んだなゆんべは。さっきは二十五度の小便が出たぜ」
明を見て手を止める。顔面から汗が流れ落ちている。裸になった上半身に湯気が立っている。
「朝から張り切ってまた昼寝するなよな。職長に見つかると出るものも出なくなるぞ」
今さらボーナス減らす事もないだろうが、光二はトイレの中や機械の横に隠れて十分十五分と上手に寝たりしてサボっている。いつも明が注意してバレずに済んでいる。バレているかも知れない。
「汗もクソも出るもんは全部出す。ついでにアルコールも出す。こうやって汗と一緒に全部出してしまわねえと、クソがたまんなく臭いからな」
突き刺すような朝の寒気を破る程の大声を発して再びバーベルに跳んでゆく乱れを見せないリーゼント。若さが違う。多分昨夜は寝ていないのだろうに何という溌剌とした体の動きであろう。明はその盛り上がった桃色の肩の肉に見入りながらなぜか急に昨夜のあの焦燥感が体いっぱいに湧き上がって来るのを感じた。
機械が泣いている。がっちりとコンクリートの床に埋め込まれた四肢をそれでも精一杯ゆすって、キリキリキリ、キリリリーンと全身で抗議しているような不調和音の尾を長く引いてゆく。ステンレス材だ。その硬さの前にバイトの刃がひるんだように揺れて、そしてもう一度揺れたときにポキリと折れた。
「クソオー。あせるぜ」
刃先を入れ替えると、前にも増してハンドルを強く回す。他の工員達はすでに作業を終了して正月休みの為の片付けや機械の清掃に入っている。運河の向こうの大工場はもう今日から休みに入っているのだろう。今朝は九時になってもサイレンが鳴らなかった。
キリキリキリに続いてまたギリーンギリーンと鉄が泣き出した。明はあわててハンドルを戻す。二本目のバイトはもう大分熱を持って来ている。
見るとはなく見た中央の大時計は昼の十分前である。
「やばいぜ明チャン。職長が睨んでるぞ。又始まるぞ節約説教が。ホラ来た来た」
心配そうに光二が寄ってくる。シャフトの一本を持ち上げるとウエスで油をぬぐい出した。上体を前後に揺らせていかにも一心に作業をしている様子である。上手いもんである。まずサボっているとは見えない。
「砂の来ない間に、ここん処だけでも削ってしまえば昼からは面倒が少なくなる」
精密な部分だけでも昼休み前に終らせてしまいたい。マイクロメータを当ててそのミクロの処を読み取る。
「あせった明はもらいが少ないって言うだろ。過ぎたるはお呼びでないがごとしだぜ」
これが光二流の心配の仕方なのだ。
「かまうもんか。バイトの二本や三本。それよりこのシャフトとお前のそのフランジの二百万円。六時までに納品しないとM精機は待ってはくんないぞ。あいつのボーナスだって出なくなるくせに」
たとえ待ってくれるとしても明は今、この作業に全力を注ぎたかった。焦って、焦ってどこかに狂って走り出したいようなこの気分。明日も今日も体中を駆け回っているこの焦り。その気分に押されている。この機械とそして鋼材と共に、思いっきり自分を削りきざんでしまいたい。粉々になるまでにしてしまいたい。そして人間離れした悲鳴を工場の外にまで聞こえるほど発し続けていたかった。
俺はこのギリギリと言う鉄の泣く声しか出すことが出来ない。とらえようのないこの焦燥感。そいつを表わす言葉も行動もない。ならばこの機械と鉄と俺の体はここでキリキリ泣いて果てるしかないじゃないか。泣け泣けもっと泣け。バイトの刃ならいくらでもある。
「やってらんないな。俺メシ食って寝るぜ」
光二の声も聞こえないかのように明の機械は身をよじるような金属音をいつまでも発し続けている。
黒く丸い瞳。
明を見続けるその瞳の中に小さく小さく明が二人映っている。再会の夜の長く息を止めて見つめ合った感動のワンシーン。駅が吐き出した無数の人の波が広場を横切って足早に横断歩道を渡り切ろうとしていた、夕刻の街はせわしなく息づいている。大都会にあふれ切った人々がそれぞれの目的の方向へいっせいに動き出す時だ。信号が変わる直前だ、前から次々に押し渡って来る小走りの人々。
彼らをかきわけるように駅に向っていた明の目の前に突然、その顔が出現した。気にも止めずそのまま前進しようとした。だが、思い出が蘇って急に体の中を電流が通過したようなショック。同時に洋子にも同じ現象が起きたようだ。両側を急ぐ人波に揉まれながらお互いにすぐには声も出ない、足も動かなかった。
大都会の無限の人波の中で七年半ぶりの運命。この再会は明の情熱のボルテージをいやが上にも盛り上げた。
「変わった。本当に変わってしまった。すっかり垢抜けして、もう完全に東京のお嬢様になり切っているよ。本当におどろいたよ」
まぶしそうに明はつぶやいた。
「八年振りね。今はどこにいるの、やっぱり前の処」
あの工業高校さえ卒業すれば、技術者として一流の企業で迎え入れてもらえるという夢があった。
そう、あの頃はよく洋子にもそんな夢を語った事があった。そしてそれは夢。この七年半の間中明はその夢にすがって生きて来た。それでも今は工作機械のエキスパートだ。たとえ吹けば飛ぶような町工場でも、明は技術に生きているのだった。
「まあね、ずっと学校出てから機械の方でやってるんだ。二つ三つ替ったけど今の処もそこそこの会社だよ。機械も色々と揃っているし、ま、たまには図面引いたりもして結構いそがしいんだ」
それなりに事実も混じってはいる。職長が出張した時には光二と自分の分の図面の修正は明がやっていた。
「そう、大きい処へ入れたのよかったわね。学校で習った事を生かす事が出来たのね、素敵じゃない」
コーヒーを前にして洋子は単純に明の現在を喜んでくれた。色々と仕事の件はさぐられたくはなかった。
「体力なら負けない。忙しい時は徹夜で製図した事もあるよ。会社は少しは認めてくれるし、若い者の二、三人は面倒見るようになったし」
吹き溜りのような町工場の中で深夜まで油まみれで鉄塊と取っ組んでいる現実はオブラートに包んで話した。
「あの時、連絡しなくってごめんなさい。私、やり直したかったの。あそこじゃ駄目だと思ったの」
学業途中で帰郷してしまった洋子。その後しばらく郷里で職業訓練を受け、再上京して都心のオフィスで経理事務員として働いているのだと言って職場の電話番号を明に渡した。
「俺んとこ忙しいから、仕事中は話せないよ。出張なんかもあったりで、これアパートの番号。そこ大家だけどすぐ呼び出してくれるから」
やはり明にはあのボロ工場の事は打ち明ける事は出来なかった。それでも洋子はその時は気にしてはいないようだった。
今度こそ明は洋子を離したくなかった。
終業の五時半が過ぎて五分以上もキリキリと泣いていた明の機械。もう工場の中で働いているのはこの一台きりである。さらに五分たって明は最後のシャフトからバイトの刃を離してスイッチを切った。音の止った機械の脇で光二がようやく全部の部品を古新聞に包み終える。木箱に納め込んで二人でトラックまで運ぶ。
「出来たぜブラボー。持ってけ泥棒。死んでも納品して来いよ」
M精機まで運ぶトラックにはすでに納品係の男がエンジンを掛けて待っている。
「ガッテンだ。手形のうけとりにんはおふたりさんにしておくぜ。ボーナスの足しにしてくれい」
それが露地を回って産業道路に走り出た事を確かめてから職長は、物欲しそうに待ちくたびれている工員たちの処へ茶封筒の束をさも大切そうにゆっくりと運んで来るのであった。
こうやって今年もともかく終わってゆく。昼食抜きで立ち通し働いた明と光二を含めて何事も無かったかのように最後の一日が終ってゆく。
電線が鳴いている。夕暮の空を渡って又木枯しが強くなって来た。
胸のポケットに三十数枚の一万円札の重さを感じながら明は工場の外へでた。露地から振り向くと、すっかり機械も停止し工員も皆いなくなった工場の電気を専務がひとつひとつ消し回っている。
暗くなってゆく工場の中。北風の通り過ぎてゆく中で人気の無い掘立小屋が夕陽の最後の耀きを受けている。
舞い立つ砂の中で、それでもボロ小屋は夕陽を一面に受けて紅く染まっている。
「何かよお、こんなの見てるとよ、沈むぜ心も。今日でオサラバ、旅立ってゆくんだの気分になる。こんな会社でも」
光二にしては沈んだ声である。内容も彼には似合わないウエットさだ。
「来年きてみたらビルになってて、機械も新型で、皆ネクタイ締めて働くなんて初夢でも無理だろうな」
言いながら明はそこに耀くビルを見たような気がしたのだ。その中でネクタイを締めて自分は製図板に向っている。自動化された最新式の工作機械が何十台もピカピカに磨き上げられた工場の中で静かな音を立てて次々に鉄を削り上げている。コンベアーに乗って製品が出荷されてゆく。
もう一度目を凝らすと、そこはやはり掘立小屋だけである。
「そのセリフはマジで言ってるな。目つきがちがう。明チャンのそんなところが俺にはない良いところだって富江がほめてたからなあ。夢を持つっていうのはいくつになっても胸が鳴るもんだ」
光二にだって、いや光二ならばきっと、もっともっと明より大きい夢があっていいはずなのに。
「いいんだよ俺は。ここだってミクロの技師の活躍出来る場所はあるさ」
わざとらしく言った。本当はそれを洋子に聞いてもらいたいと強く思った。
夕焼けが終ってゆく。木枯しに追われるように冬の太陽がビルの向こうに沈んでゆく。急速に明るさを失ってゆく空を一羽大きな黒い鳥が横切った。舞い上った白い紙片が糸の切れた凧のように上へ上へと昇って小さくなってゆく。それを包み込むように空に闇が広がる。
やがてその闇は地上の闇と合体すると、もうそこには夜が始まっている。闇の中に工場の全景が沈んでゆく。三十万円の札束と引き替えに、明と光二が一年間の青年の日々の大半を過した掘立小屋が闇に溶け込んでゆく。
【つづく】