【寄稿・取材記事】 「お上」に楯突き続けるフクシマ牧場主=石田貴代司
石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
東京・世田谷区に在住
「アマチュア天文家」として、
同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。
<あの男、ふたたび>
福島第一原発の事故により、牧場の放棄と家畜の殺処分を政府から指示された。さらには半径20キロに、当該区域への立ち入り禁止と退去を命じられた。いわゆる「警戒区域」である。被ばくして売り物にならなくなった家畜や、人体の被ばくを省みず、守り続けている農家がある。
’12.5..28付けで「穂高健一ワールド」に投稿した「福島原発14kmからの訴え」の主人公である吉沢正巳氏(59)である 。
その後も彼は全国を股にかけて説得を続けている。私が昨年出会った渋谷にも、月に1回は登場して街頭演説をしている。彼に興味を持ち続けて、調べるうちにいろんなことがわかった。
<吉沢正巳の支援者たち>
まず前与党の国会議員だったT氏である。福島や被災地と無関係の地盤の議員だが、原発事故の後、約50日間にわたって、被ばく地域を(議員特権を利用し)視察してまわった。畜産農家の実態など、20キロ圏を一番よく知る政治家と言われた。
もう一人は、針谷(はりがや)勉氏(39)だ。映像ジャーナリストでAPF通信社所属(2007年ミャンマーで射殺された長井健司記者の同僚)の彼は、原発の水素爆発の当初から取材を行い、この地域で活動中である。当時のT議員とも知り合った。
多くの畜産農家が自宅や家畜を放棄して避難している中で、立ち入り禁止の牧場に密かに出入りして、約300頭の牛たちに水や飼料を与え続けていた吉沢正巳のことも、自然に彼ら二人の知るところとなった。
(針谷氏に今回電話取材できた。近く道玄坂事務所で面談予定)
T議員(当時、後に方向転換のために、離党、議員辞職)は、法律的な知恵を貸したり、立場を使って吉沢を後押ししたりする。針谷勉は取材の入り、吉沢の情熱と魅力に共鳴して、「希望の牧場・ふくしま」の人間になって、月の半分は餌やり、掃除など社員として働き、事務局員となった。そして針谷が、吉沢の生き様を書いた「原発一揆」が昨年暮れに上梓された。
<吉沢正巳の主張>
「いま国は、私たちベコ屋に牛を殺せと言っています。国は殺処分とともに、原発被害の証拠を隠滅したいのでしょうが、私は絶対に殺処分には同意しません」(「原発一揆」から)
「福島は東京に何十年も電気を送り続けてきました。なのに、いまでは『放射能ばい菌』とか、『福島から嫁はもらうな』とか、そういう深刻な差別が現実に起きています。みなさん、考えようじゃありませんか。福島を犠牲にして、この東京は便利な暮らしが成り立っているという事実を」
「憐れんでほしいのではない、一緒に考えてほしい」
と訴えた。(渋谷の街頭演説で)
東京農大を卒業して、この渋谷にも通じている彼には、東京は第二のふるさとの感慨もありそうだ。
<畜舎を放棄して避難した飼い主の気持ちは?>
写真は震災直後の3月15日に「いちご」と命名された乳牛の赤ちゃんの、母の死骸である。
畜主も避難してほぼ全滅してしまった牛舎だ。畜主の話では出産予定日が15日だったというので、「いちご」と針谷勉が名づけた。いちごは母牛が死んでも、長らくこの場を離れなかったと針谷は「原発一揆」の中で書いている。
この子牛を助けてくれるように、吉沢に頼んだのが、知り合う前の針谷勉であった。
母子牛の物語を聞くに付け、牛たちに対する情というものが、私でさえわかる気がする。まして、毎日世話をして可愛がっていた畜主の気持ちは量りきれないと気づいた。乳牛は餌を与えるときには首を「スタンチョン」という器具で固定するために、多くの牛はこのような死に方をする。
(牛の写真は「希望の牧場」のHPから)
<「ふく」ちゃんの奇跡>
2012年2月、原発の作業員だった人から、針谷勉のいる希望の牧場・事務局宛に電話が入り、「今原発の正門前に、交通事故に遭ってうずくまったまま動かない子牛がいる。何とか助けてもらえないだろうか?」と申し出があった。
原発作業員の車にひかれた母牛は即死、子牛は一命は取り留めたが、重症だった。獣医師に見てもらうと、生後6カ月で、脊椎を損傷して下半身の神経がまったく機能していない。今後は上の臓器を侵され、肺が動かなくなり、呼吸困難になって“いのち”を落とす。との見立てだった。
子牛は「ふく」と命名された。2~3日すると水が飲めたり少しの餌も食むようになり、元気が出たように見えた。だけど立ち上がることも出来ない。
ひょんなことから、「ふく」の飼い主が埼玉県に避難している鵜沼久江さんとわかった。
鵜沼さんが「ごめんね、ごめんね」「よく生きててくれたね」と泣きながら強く抱きしめた。すると突然「ふく」は甘えるように大きく鳴き、同時に4本の足でヨロヨロと立ち上がったと言うのだ。
“いのち”のすごさを感じたと針谷勉は書いている。
ふくちゃんのことは<希望の牧場>の活動とともに、多くのメディアが取り上げてくれた。NHKの「あさイチ」でも取り上げられて、それ以降は頼まないのに募金が1000万円近く集まった。
<原発一揆>
こうした募金は全国から集まったが、被災地の人びとからも募金や支援物資、応援メッセージが届いた。「あなたたちは警戒区域の希望の光。とても勇気をもらった」
「感動をありがとう」など。
しかし、「ふく」は助けられた約1ヶ月後の3月19日に発作が起きて死んだ。
「ふく」が起こした奇跡によって、たくさんの支援を受けて、多くの牛たちの“いのち”が救われたことになったのだ。吉沢は私たちが「ふく」を救ったのでなく、ふくに救われたのだといった。
いまも、餓死でも殺処分でもない、第三の生かす道を望む20軒の農家が、売り物にならなくなった被ばく牛、約700頭の飼育を続けている。それ以外にも約300頭が野良牛となっている。
「原発一揆」は、街頭演説で吉沢が何回も口にした言葉だ。
歴史的に一揆の首謀者は、最終的には打ち首となるのが常だ。「お上」に楯突き続ける吉沢正巳が迎える結末はどうだろう?(了)
文責:石田 貴代司
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