【寄稿・フォトエッセイ】 監督の背中=三ツ橋よしみ
三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。
監督の背中 三ツ橋よしみ
2007年の8月の暑い日だった。私は渋谷の映画館に、山本保博監督作品「陸に上がった軍艦」を観に出かけた。これは新藤兼人がみずから戦争体験を語ったドキュメンタリー映画である。私は中央通路わきに席をとった。あたりを見回すと、ほぼ満員だった。学生らしき客が多かったが、戦争体験者と思われる、年配者の姿もちらほら見受けられた。
映画は、新藤さんが自ら画面に登場し、戦争体験を語るドキュメンタリー部と、軍隊生活を描く再現ドラマ部とが、交互に映し出される構成になっていた。
脚本は新藤兼人、監督は新藤兼人の助監督を務めてきた山本保博で、本作が監督デビューということだった。
昭和19年4月、32歳の新藤さんは招集され、広島の呉海兵団に帝国海軍二等水兵として入隊する。
与えられた任務は、奈良県の天理教本部で、特攻隊となっていく予科練生が使う宿舎の掃除だった。そこは一年に一回しか使用されない建物で、ノミとほこりだらけだ。召集された100人は一カ月かけて掃除する。年下の上等兵にこき使われ、くずと呼ばれ、木の棒で気の遠くなるほどたたかれた。
掃除が終わると、100人の中からクジで選ばれた60人がフィリピンのマニラに陸戦隊となって行った。60人はマニラに着く前に、アメリカの潜水艦にやられて亡くなる。残りの40人のうち30人は日本の潜水艦にのってこれも全員なくなってしまう。
残った10人は、宝塚劇場の掃除に配転となった。掃除が終わり、10人の中から4人が選ばれ、日本近海の海防艦に乗せられた。
新藤さんと一緒に召集された100人のうち、宝塚に残ったのは6人だけになった。
自分はどこへ行かされるかと、空を見上げた。青空が広がり、周囲がやけに静かだった。その日の昼に、終戦を知らされる。八月十五日だった。
映画が終わり明るくなった。場内にアナウンスがあった。
「これから新藤兼人監督のトークショーがありますので、座席でそのままお待ちください」
予想外だったが、これはラッキーと、立ち上がりかけた座席に座りなおし、新藤監督を待った。やがて、スクリーン脇のとびらが開き、監督が姿を見せた。若い女の人に脇を支えられている。たぶん孫の新藤風さんだろう。95歳の新藤監督は、背を曲げ、杖にすがりついている。一歩一歩、通路を進んで来る。
スクリーン正面には、三段ほどのステップが用意されていた。そこまでの20mほどが監督には遠い。一歩ごとに座席の背もたれに手を伸ばして、体を支えながら進んで来る。監督がやがて私の方に近づいてきた。しみだらけの監督の顔が目の前にあった。監督の手が、私の顔の横に伸びてきて、座席の背をつかむ。鋭い目が、前方を見つめ、強い意志を感じさせた。監督がスクリーンのほうへ向きを変えた。私は思わず、監督の背中に手をあてた。
(お元気で、頑張ってください)と、祈った。
細い縞の入った青い背広だった。背広の下には、骨太でがっちりしたからだがあった。農民のからだ、戦争を生き抜いた身体だった。
監督が無事にステップを登りステージの椅子に腰を下ろすと、皆が拍手をした。監督の顔が笑顔になった。
「62年前の八月十五日も、今日みたいに暑かった」と、監督が話された。
2011年には、99歳の新藤兼人監督が映画「一枚のハガキ」を完成させた。100人いた兵士のうち6人が生き残る。その生き残った男と、夫を戦争で亡くした女の話である。
映画の中で
「なんでうちの人が死んで、お前が生きているんじゃ!」
夫を亡くした女が、生き残った男をなじる。
新藤兼人は、生き残った自分に、戦争でなくなった96人の遺言を伝える責任を課した。その映画がようやく完成したのだ。戦後66年経っていた。
新藤兼人監督は、2012年5月29日、満百歳で亡くなられ、映画「一枚のハガキ」が遺作となった。
ご冥福をお祈りいたします。
文 : 三ツ橋よしみ
編集 : 滝アヤ