【寄稿・フォトエッセイ】パッケージ=伊藤宗太
作者紹介:伊藤宗太さん
東京工業大学卒業の20代で、現在はIT企業インフォ・ラウンジ合同会社に役員として勤務しています。
趣味は登山です。高校時代は山岳部に所属していました。
朝日カルチャーチャーセンター・新宿「フォトエッセイ入門講座」の受講生です。
パッケージ 伊藤宗太
社員が数人の小さな会社に勤めている。みんな音楽が好きで、僕も大好きだ。なので、仕事中はずっと音楽をかけている。
iTunesという、パソコン用の音楽再生ソフトに入っている1000以上の曲から、その日の気分に合わせてかける。
その中に聴きたいものがない時は、インターネットラジオで音楽専門チャンネルに繋いでいる。
そう、今、音楽を摂取するのはとっても簡単なのだ。
音楽と、それを包むパッケージの歴史は100年ぐらいしかないと思う。大まかには、LPレコード→CD→データ(MP3など)という道筋を通ってきた。その歴史の中で、音楽はどんどんラッピングを剥がされ、生身の姿となった。
LPレコードは、素敵なジャケットをプリントするに十分な大きさのケースに入っていた。ケースの中身にはライナーノーツだったり、アーティストのメッセージだったりする印刷物が同梱されていた。再生するときはレコードの初めからで、曲を聴く、というよりもその一枚のレコードを聴くという体験だった。
「かっこいいジャケット + ライナーノーツ + アルバムとして聴く音楽」。
CDになって、曲の頭出しができるようになった。聴き手は、好きな曲だけを選べるので、アルバムを通しで聴く必然性は失われた。つまり、音楽の単位は「曲」に近づいた。ジャケットも、LPに比べればずっと小さくなった。「LPより小さくなったジャケット + ライナーノーツ + 曲として聴く音楽」。
今は、音楽はMP3形式などのデータファイルとしてやりとりされている。データなので、ジャケットは無い。聴き手は、この曲がどのアルバムに入っているかもう考えないし、ライナーノーツを舐めるように読んで作品の背景に浸ることもない。
作り手はやっとアルバムという作品の制約から逃れられた、と喜んでいるかもしれないし、音楽はパッケージが植え付けるイメージから脱出したとも言える。間違いないのは、音楽は「曲」という最小単位のすっぱだかになったことだ。
これは、つまらない流れではない。音楽をきれいにラッピングすることが、できなくなったのではないからだ。
敢えて、大きなジャケットにCDを入れて、わざと頭出しをできないようにしてアルバム全体を構成し、
素敵な小冊子やアーティストの写真を添えて、これでもかとパッケージして発売するのもすごく良い。
一見音楽を味気なくしているこの流れを、逆手に取る作品がこれからきっと出てくると思う。そうすれば、音楽とパッケージの関係はもっと面白くなるし、そうなってほしいと願っている。