A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 去年のさくら=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           昨年のさくら 縦書きPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

去年のさくら  久保田雅子

 昨年、私とクリスティーヌは、3月の終わりに目黒川でお花見ランチの約束をしていた。
 そこに東日本大震災が発生した。翌日12日の原発爆発事故が起きて、在日外国人にはそれぞれの国から国外退避勧告が出された。彼女も家族と共に香港に避難した。
 それから約1か月後、避難勧告が解除になったことから、日本に戻ってきた彼女と会った。
 桜を見ながらのランチだったはずが、目黒川の桜は花も終わっていて食事をする気分にもなれず、コーヒーだけになってしまった。

 話題は国外退避時の話になった。
 急な勧告に危険を感じた彼女はわずかな時間のなかで、荷物の準備もそこそこに、家族と共に大渋滞の高速道路を成田空港へ向かった。空港内も大混乱の中、やっとの思いで出発できたと語る。
 震災では外国人も大変な思いをしていたのだ。

 日本に戻ってからも、日本語が読めず食品の安全については、不安な思いで毎日を過ごしていると話していた。私は無責任に「危険なものは販売禁止になるはずだから大丈夫よ」とアドバイスした。
                                (目黒川24年4月11日撮影)

 この頃に『トモダチ作戦』のニュースを聞いた。アメリカ軍が大がかりな日本救援作戦を展開していた。使用不可能になった仙台空港が、あっという間に復旧できたのは、日本の自衛隊に協力した米軍のおかげだ。
 私は日本の苦境を助けてくれた『トモダチ作戦』の全容を知りたいと思っていた。
 今年3月11日夜、テレビ朝日でドキュメンタリー番組『3・11映像の証言トモダチ作戦全容』を見ることができた。

 東日本大震災で自衛隊松島基地は、津波にヘリや航空機を流されて全滅状態になった。活動不可能になったのだ。
 アメリカでは日本政府の要請がある前に救援準備に動き出していた。
緊急指令―「日本を救出せよ」と横田空軍基地に作戦司令部が置かれた。

 すべての艦隊に全速力で日本を目指すように指令がでた。
 西太平洋を航行中の空母ロナルド・レーガンも進路を変えて日本に急行する。
「同盟国としてトモダチだ、困ったときには助けよう」
 約2万4千の兵士が日本の救援活動に動いた。

「陸の孤島、SOSを探せ」
 U-2偵察機が被災地の情報を集め、交通が遮断されてしまった所を、空から探して救援活動を開始した。

『100人SOS水』など道路や校庭、建物の屋上にSOSの文字を見つける。救助を待つ人たちが、生き延びられる時間には限りがあった。
「被災者のことを思うと胸が張り裂けそうだった」と隊員は語る。

 こうして孤立していた被災地へ、米軍から水、食料、物資の支給がはじまった。
 住民は「水が豊富になって、気持ちが安定した」と語っていた。
 孤島となった気仙沼大島には米軍の上陸用舟艇で支援物資と発電機、給水車などが到着した。隊員は壊滅した港の復旧作業を行った。

 福島の原発事故現場では放射能汚染の危険の中、米軍は船で淡水を大量に運んだ。
アメリカが『トモダチ作戦』に費やした負担と無償の愛を、被災地の人たち以外の日本人は、あまり分かっていないのではないかと思った。
 私はこの恩を忘れたくない。

今年の桜は幸せパワーがいっぱいの感じだった。去年の桜はどのようだったのか、よく覚えていない。クリスティーヌと目黒川でお花見をしながら「去年の今ごろは、なんだか毎日不安でこわかったわね…」と思い出話になった。

                      トモダチ作戦・写真の掲載許諾:在日米軍(USFJ)

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