【寄稿・写真】気仙沼大島を襲った大津波=伊東勝正
写真提供者の紹介:伊東勝正さんは、宮城県気仙沼市の『休暇村 気仙沼大島』の営業リーダー。島をよく知り、3.11の大津波を体験した。同島は、3隻のフェリーボートが運航不能になり、本州との交通網、連絡網が断たれた。
島では山火事が発生した。退路のない炎上である。島民として恐怖のなかで、伊藤さんはシャッターを切った。 メディアも救援隊も入れなかった。この時の大島の惨事を写真で残す。貴重な写真提供である。
ちなみに、アメリカ第7艦隊「ともだち作戦」で、米軍の兵士が同島に最初に上陸してきたのが、3日後である。日本の救援隊(自衛隊、海保)よりも、数段に早かった。
写真は気仙沼と大島を結ぶ、係留していたフェリーが桟橋ごと陸に打ち上げられたものです。これで本州との行き来は途絶えてしまいました。(3隻とも被害で使用不可)
3.11の震源地に近いために、2時46分の揺れはすさまじいものでした。
地震の被害で『休暇村 気仙沼大島』は数か月間、営業ができない状態に陥りました。
激しく揺れた地震の後、大津波警報が出ました。津波の高さは6メートルでした。ここからならまず安心、という気持ちで、カメラを持って待ち構えていました。ところが、とんでもない大津波でした。
休暇村の直下にあった、「体験四阿」が大津波に飲み込まれていく瞬間です。
「緑の真珠」と呼ばれた、日本でも有数の海水浴場でした。美しい海岸と砂浜が無残に姿になりました。
島の津波は、太平洋側と、気仙沼湾を襲った後の津波が逆方向からも来ました。島は真ん中で分断されました。
倒れている電柱の方角が、襲われた場所ごとに違い、逆方向になっていました。
地震と津波で、道路は亀裂が入り、車の通行ができなくなりました。
亀裂のない道路でも、海から打ち上げられた、水産業者の船や、流出した家屋で、通行が不可能になりました。
気仙沼大島は、人口約3200人の(1100世帯)のすむ、東北最大の有人離島です。客船フェリーがすべて被災して、一時は往来が完全に途絶えました。
そんななかで、山火事が発生しました。全島避難も検討された緊迫状態でした。
島民が一致団結し、延焼を防ぎました。
こんなガレキの状態です。身内の安否を確認したくとも、とても通行不可能です。
米軍の第7艦隊の「ともだち作戦」で、米兵がまず最初に上陸してくれました。そして、ブルやシャベルカーなど重機で、ガレキをのけて、通行できるようにしてくれました。
「いま思い出しても、米兵の努力と親切には涙が出る」と語る島民は多いです。
地盤沈下のすごさを語っています。
気仙沼大島は貴重な海浜植物の宝庫でした。
死者31人、家屋流出 136戸、半壊68戸、船舶流出700隻、養殖施設は全滅です。
大島には伝説「島三分断」がありました。その伝説がいつ生まれたものか、明瞭ではありません。明治の大津波でも、島は分断されませんでしたから、それ以前です。1000年前という説もあります。
こんかい大島を襲った津波は、20メートルで、中央部で合流し、島を分断しました。南部も合流寸前でした。
長く語り継がれてきた伝説は、古人の教えでした。
『休暇村 気仙沼大島』は、現在、ボランティアの方々や観光客の受け入れをおこなっています。島の海産物が全滅しました。それでも、精一杯のおもてなしをしています。
『休暇村 気仙沼大島』のレストランで、従業員が心からのサービスをいたしています。乗り場まで、出迎え、見送りをしています。むろん、無料です。
写真:伊東勝正
編集:滝アヤ