【寄稿・エッセイ】オペラ座の快人= 三橋よしみ
【作者紹介】
三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「上手なブログの書き方」の受講生です。児童文学から大人の現代小説に転身しました。
オペラ座の快人 文・写真 三ツ橋よしみ
3.11に発生した東日本大震災は、世界中に衝撃を与えました。
テレビや舞台から、笑い声が消え、歌が消えました。クラシック音楽界では、多くのコンサートが中止になりました。
4月、フランスのオーケストラの来日が中止になり、チケット代が返金されました。こんなときだからこそ、よい音楽が気きたかったのに、残念なことでした。その折、事務局の人は「こんなことは、はじめてです。この先、どうなるのでしょう」と暗い表情でした。
同時期に、イギリス人歌手のソプラノリサイタルが開催されました。
「こんなときに来てくださって、お客さんもたいへんよね」と、ひょうひょうとしたコメント。いっきに客席の気分がほぐれ、イギリス人のユーモアのすばらしさを感じました。
5月のコンサートでは、予定していたロシアの若いトランペッターが出演をキャンセルしました。チェルノブイリ事故で、ウクライナ人の身内がなくなったそうです。日本行きは、親戚中から猛反対されて断念したとか。
当日のコンサートは曲目を変更し、日本人のバイオリンニストが代役をつとめました。
そんなこんなの日々が続いていた5月。私は9月開催のドイツオペラの切符を買いました。9月ならもう大丈夫でしょう。すてきなオペラが見られるわ。期待で胸がふくらみました。
6月、7月、8月と大地震と放射能の傷が残されたまま、3ヶ月がたちました。やっと待ち望んでいた、オペラ本番になりました。
ところがです。まず主役のテノールが病気で交代。次にその代役が来日直前になって、検査で胸部に結節がみつかり手術で交代。9月25日公演当日の主役は、代役の代役となりました。どうなるのでしょうか。歌劇団はちゃんとした代役を用意できたのでしょうか。
NHKホールのロビーで、観客たちは、心中おだやかではありません。
「切符、安くなかったのよ、後悔させないでよね」という願いにも似たささやきがあちらこちらから聞こえました。
ドイツオペラの幕が上がりました。第一幕、注目のテノールが登場します。観客は、息をのみました。設定は、美男で、清らかな騎士です。お姫様が一目ぼれするほどの人です。登場したのは、お相撲さん以上に体格のいい人で、ウエストはどのくらいでしょう。1メートル?いや2メートル近くありそうです。
わたしは耐え切れなくなって、目をふせました。そして、音楽中心、耳中心にと、チャンネルをかえてオペラを見ることにしました。
第二幕は、大柄なテノールの出番が少なく、ほっと一安心。心安らかに、オペラを楽しめました。
第三幕です。オペラのお客さんは、根は音楽好き、オペラ好きなのです。だから、オペラは水ものだってことを知っているのです。絶好調の歌手にいつも出会えるわけではないのです。年取ったテノール、調子が悪いソプラノ、人間ですからいろいろあります。たとえ代役でも、ちゃんと歌えれば、あたらしいスターが生まれるかもしれないと、期待をかけたりするのです。
この日のテノールは、はじめは緊張していたのでしょう、声がかたくのびがありませんでした。ところが三幕になると、場慣れしてきたのか、見違えるようにつややかな声になってきました。
一方で、不思議なものです。観客は容姿なれしてきたのでしょう、彼の外観が気にならなくなったのです。
オペラのハイライト、テノールのソロになりました。テノールにスッポットライトがあたります。彼は落ち着いて、どうどうと歌い上げました。成功です。よかった。よかった。拍手、拍手です。
最後のカーテンコール。大柄なテノールに惜しみない拍手が寄せられました。代役に急きょ呼び出され、準備も大変だったでしょう。共演者とろくに打ち合わせもしていないはずです。それでいて、この仕上がりです。すばらしいことです。
ありがとう。遠い日本に来てくれて。ドイツからオーケストラ、合唱団、裏方、歌手の皆様、総勢400人近くで来日したとのことです。
こんな、地震や放射能で大変な、日本の国ですのに、ほんとうにありがとう。
編集:滝アヤ