【寄稿・エッセイ】一枚の写真=久保田雅子
【作者紹介】
久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
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一枚の写真 久保田雅子
衝撃をうけた一枚の写真に、先日、ある雑誌でまた出会ってしまった。
すっかり忘れていた、その写真の題名は、<焼き場に立つ少年>である。
昭和20(1945)年に長崎で撮影されたもの。
元米軍従軍カメラマン、ジョー・オダネルの有名な写真だ。
撮影は夕方遅い時間だろうか。あたりは薄暗い。10歳ぐらいの少年が焼き場の前で、はだしで胸をはって立っている。その背中にはたすき掛けで幼子をおんぶしている。その子は首をうしろにのけぞらせてぐっすりと眠っているようだ。少年は唇をきつくかみしめてじっと前をみつめている。
やがて白いマスクをした焼き場の男たちが近づいておんぶ紐を解いた。オダネルはこの時、はじめて幼子が死んでいることに気づいたという。男たちは焼き場の熱い灰の上に幼子をそっと横たえた。少年は燃え盛る炎をじっとみつめていた。燃える炎が静まると、少年は無言で去って行った。
オダネルは軍の命令で被爆地の記録撮影をしていたが、許可なく人を写すことは禁じられていた。けれどもあまりにも悲惨な被爆地の状況に、写さなくてはならない強い衝動にかられて人を撮影していた。焼野原を背景に晴れ着を着た幼い少女の写真、ガレキのなかで笑っている子供たち……。撮影した写真は極秘にアメリカへ持ち帰り、自宅のトランクに封印して保管された。
私には写真でみる長崎の焼野原が、東北の大津波の後とダブって見える。
原爆ニュースに動揺した当時の日本人の気持ちが、いま、東日本大震災後の私たちの気持ちと重なる。大震災後は、なんとなく不安定な気持ちで落ち着かない日々を過ごした。薄暗いスーパーへ行き商品も少なくなっていて、戦後もこんな感じだったのかなと思ったりした。これからどうなっていくのかわからない不安な気持ちがしばらく続いた……。
原爆の時はテレビがない時代だから、人々はピンとこなかったかもしれない。でも、なにか大変なことが起きたという不安とおそろしさで、終戦まで過ごしたにちがいない。
東日本大震災は千年に一度の天災というが、天災も戦争も原爆も人々のつらさは同じように計り知れない。第二次大戦では日本国中で物資も食糧もなく大変な思いをした。
オダネルは、晩年になって封印されていた写真を公表した。突き動かされるようにして写した写真には、原爆反対の使命があったのだ。
私は東北の被災地へ行ってみたかった。一人では不安だったので夫を誘った。
「何しに行くの?」と夫。
「ガレキの中に立ってみたい。足がすくんで涙がでるかもしれないけど……」
「そういうのをヤジウマと言うんだ。被災地で、いちばん迷惑な人間だよ」
確かにその通りだと、私は素直に納得してあきらめた。けれども現地に行って体感したら、なにかをつかむことができたかもしれないと思う。オダネルのように突き動かされるような何かが、私のなかに起こったかもしれない……。
【関連情報】
『焼き場に立つ少年』の写真掲載は、版権者(テネシー州に在住)から、
ウェブ発表は複写の危険を伴う、という理由で許可が得られませんでした。
・ 写真掲載の雑誌は『カトリック生活 2011・5号』(210円)
(発行・ドン・ボスコ社 03‐3351‐7041)
・ユーチューブ『ジョー・オダネル』からも確認できます。