【寄稿・エッセイ】ハポンさん=久保田雅子
【作者紹介】
久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
ハポンさん 久保田雅子
スペイン語ではJAPON(日本)と書いてハポンと読みます。
スペインのアンダルシアの田舎町コリア・デル・リオにはハポン姓の一族が住んでいます。現在は7~800人です。ハポン(日本)さん達は、自分たちの先祖はサムライだと信じています。
サムライとは伊達正宗の命で渡航した、支倉常長(はせくら つねなが)がひきいる慶長遺欧使節団です。長い旅の間に、病気またはなにかの事情で日本への帰国を断念し、その町にとどまった誰かと考えられています。
支倉常長の苦難の渡航に関心をもっていた私は、平成8年、彼らの渡航に使用された復元船ができたと聞いて、真っ先に見学に行きました。
宮城県石巻市に慶長使節船ミュージアムがオープンしたのです。
それは仙台藩主の伊達正宗が建造させた木造の外洋航海型帆船です。復元船サン・ファン・バウティスタ号は、180名を乗せて太平洋を2往復した船とは思えないほど小さくて(約500t)おどろきました。内部は水夫の生活がわかるように再現された展示になっていました。工夫された造作に、当時の日本の造船技術の高さに感嘆させられたものでした。
支倉常長は正宗に初めてのヨーロッパ外交使節を命じられると、この船で石巻(月の浦)を出港(1613年)しました。太平洋を横断してメキシコのアカプルコに到着すると、陸路を歩いて横断してからまた船で大西洋を渡ります。
スペインのセビリアに到着してからは、ふたたび徒歩でイタリアのローマへ向います。このときに長期に滞在した町が、セビリアに近い小さな町コリア・デル・リオです。
常長は苦難の旅をかさねて、ついにローマ法王に謁見し、正宗の親書を渡す使命を果たします。けれども、彼らが日本を出発してまもなく日本はキリシタン弾圧、鎖国となってしまいます。常長は旅の間に受洗してキリシタンとなって、7年後にこの船で帰国(1620年)しました。
2年後には失意のうちに亡くなっています。その後、お家も断絶です。
私は東日本大震災の大津波で復元された船がどうなったか心配でした。
少しの破損ですんだようでほっとしていました。だが、4月27日深夜の暴風雨でメインマストの上部とフォアマストが折れてしまいました。
世界中に報道された未曾有の大災害のニュースに、スペインの大勢のハポンさんたちもどんなにか心を痛めて心配していることでしょう。約400年前の無念だった常長の生涯が、遠い国との大きなつながりになっていた現在に、歴史の不思議を感じます。
いまは船が元の姿に戻ることを、こころから祈るばかりです。
復元船・サン・ファン・バウティスタ号は支倉常長と使節団の偉業が、これからも人々に語り継がれていく使命を荷っているのですから。日本で、そしてスペインでも。
【了】
写真提供:宮城県石巻市「慶長使節船ミュージアム」
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