【寄稿】故・吉村昭は名著で、三陸大津波を警鐘していた=久保田雅子
東日本大震災の大津波で、一部報道によると、岩手県田野畑村の「吉村文庫」が流失している。作家の故・吉村昭さんと奥様の作家・津村節子さんご夫妻が、自作の書籍を中心に800冊を寄贈したもの。貴重な夫妻の初版本も含まれていたという。場所は、三陸鉄道の北リアス線・島越(しまのこし)駅舎内である。
私は吉村氏の作品が大好きだ。けれども、私はこの報道に接したとき、たくさんの人が大津波に流されて、膨大な数の人々が行方不明の時に、いくら貴重な文庫でも、この際は取るに足りないことだと思った。まして、吉村さんの作品の「三陸海岸大津波」(文春文庫)のことも報道されていないし。
数日後、ある疑問がふと生じた、なぜ「三陸海岸大津波」が大きく報道されないのか、と。吉村さんは先人の被災体験を緻密に取材し、警鐘を鳴らしていた作品なのに、と。
と同時に、先人の体験が生かされず、大勢の死傷者や被災者が出てしまった、それが残念で、被災者が気の毒に思いました。
同書を紹介したい。吉村昭さんによる、生存者の聞き取りから、津波襲来の状況、被害の巨大さ、救援活動などについて詳しく書かれている。
明治29(1896)年の明治三陸地震、昭和8(1933)年の昭和三陸地震、そして昭和35(1960)年のチリ地震のことが記されている。それぞれの被災時の資料を集めるなど、こまかな取材がなされている。
明治29年6月13日(旧暦の端午の節句)の大津波は死者、行方不明者は2万人以上だった。
梅雨時の高い気温と湿度が死体を腐敗させ、家畜の死骸からの腐臭も加わり、三陸海岸の町や村に死臭が満ちた。
死体には蛆が大量発生し、おびただしいハエが空を舞ったという。
魚網で死体を引き上げている絵図など、悲惨な被害状況の絵が何枚も掲載されている。写真ではなく絵である。(引用:文春文庫「三陸海岸大津波」 『風俗画報 大海嘯被害録上巻』より)
明治のころまでは津波のことを三陸沿岸では<ヨダ>とも言った。
昭和8年の大津波は3月3日(桃の節句)。この時の災害を書いた小学生の作文がいくつか載せられていて胸がつまる。貴重な資料だ。
明治につぐ昭和の大津波で、住民は高所の移転を強く要請された。けれども、年月がたち津波の記憶がうすれるにつれて、漁業をする人たちは生活の便利さから海岸近く戻っていった。
吉村氏は、田老町の防潮堤は10m65あるが、明治、昭和の津波のことを考えると、次なる大津波の時にはこの防潮堤を越すことはまちがいない、と警告している。
数年前に読んだときは、被害者数や被害状況など、こまかな数字が並ぶだけに、津波のことがよくわからなかった。実感もできなかった。
東日本大震災後の、いま読み返してみると、津波にのまれていく、そのおそろしさや被災後の状況がいっそう身近になって、つらく悲しくなる。
三陸海岸のすぐ下に位置する、福島原発では大変な事態になっている。吉村氏は海岸際にある原発の存在も、危惧していたのではないだろうか?
関連情報
作者紹介:久保田雅子・画家、インテリア・デザイナー