A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・小説】 森田哲郎「最高の夕食」

 額の汗をハンカチでぬぐいながら、駅ビルを登る。待ち合わせの時間までは十分余裕があるが、急ぐに越した事はない。妻の友人のつてでコンピュータ会社へ中途採用の口ができたのだ。今日は最終面接らしい。
 不況のこの時勢、必要なのは人とのつながりだと実感する。もうこれであてのない履歴書を書く必要はないのだ。
待ち合わせ時間ぴったりに来た妻の友人は、僕と目を合わすと気まずそうな顔をした。嫌な予感がした。

 「非常に申し訳ないのですが」
 派遣先との調整がうまくいかず、募集人員が削減されたらしい。彼は淡々と事情を話した。僕には文句の言える筋合いはないので、じっと聞いているしかなかった。職を得られなかったというのに、彼の誠実さに関心してしまったくらいだ。

 しかし、明日からどうやって生活していけばいいのだろう。三十代に入ると、募集は激減する。二十代に数年、腰掛けでサラリーマンをしていた僕にとって、再就職は難関である。求人誌を読みながら、何か取り返しのつかない状況になったと思ってしまう。

 以前、ささいなことで会社を辞めてしまった。それを後悔しはじめるのである。一度そのことが頭をよぎると他のことを考えられなくなる。気分は悪くなり、些細な妻の言動にも腹を立てるようになり、喧嘩をする。

 そんな状況だから、妻が提案してくれた今回の話は願ってもいないことだった。すべてが好転すると思っていたのに。また妻に八つ当たりする僕になるのだろうか。そんな弱さにかなり落ち込む。しかも僕は酒がまったく飲めないので、アルコールで気を紛らわすことさえもできない。もっともアルコールを飲んでも事態が変わるわけでもないから、幸いなことかもしれないが。

 アパートに帰るのが億劫になった僕は、別れると、階下にある本屋に寄った。まず僕が向かうのがベストセラー作家のコーナーだ。そのなかでも僕は分かり安い物語を好む。あまり小説で深く考えさせられたりするのは苦手なのだ。ただでさえ毎日頭を悩ませているのに活字を追ってまで落ち込みたくない。
 僕が手に取ったのはスパイアクションものだった。洒落た文体で、逆境に置かれた主人公の強さが語られていく。

 誰もがその主人公のようだったらいいのにと思う。決して諦めず、最後には必ずハッピーエンドが待っている。そんなできすぎた話を嫌う人も多いが、主人公に感化されたあと、僕は少しだけ強くなったような気になる。僕にとっての小説の役目はそんなところでいいと思っている。

 じっと立ち読みするのも苦痛になってきた。そろそろ本屋を出ようとした矢先、先ほどの面接を受けた妻の友人の姿が遠くの漫画コーナーにちらりと見えた。

 怒りがこみ上げてきた。あれだけ誠実そうな様子を見せていたくせに、しらっと本屋で、しかも漫画なんかを探しているなんて。彼にとって、先ほどの態度もただの仕事だったのか。そんなことは当たり前の話だけれど、ショックを引きずっている僕には落ち着いて考えることができなかった。裏切られたような気持ちで僕は足早に本屋を立ち去った。
 
 しばらくアパートに戻らず、外を歩いてみることにした。途中、自販機で缶コーヒーを買った。生ぬるくてべとつくような甘さのコーヒーが少し気分を落ち着かせてくれた。アパートの近くにある林業試験場跡地の公園に足は向いていた。公園には広大な野球のグラウンド二つ分以上もある広大な敷地を有する。僕は何かに行き詰ったとき、良くここに来るのだ。

 前回は妻と買い物をしたあとだった。そのときは繁華街の一角にある量品店まで来たのだが、洋服のセール会場は込み合っていた。妻に連れてこられるのは何回目だろう。そのくらい同じ景色をみてきた。
 「腰を降ろして待ってるよ」
 私は店内の隅に置かれている椅子を指差した。妻は喜んで賛成した。椅子まで歩く。こんな風にして買い物に付き合うようになったのはいつの頃からだろうか。
 以前はそんなことはなかった。彼女にべったりと寄り添って、店内の隅から隅まで見回していたものだ。それが次第に興味をなくしていき、今では椅子に座り込んで文庫本を読む。
 正直なところ、妻が何の服を着ても驚きなどない。すべて同じに見えてしまう。かといって妻に魅力を感じていないということではない。

 前に立てかけてある大きな姿見に私の全身が写っている。が、それすら見る気がしない。数年前の私なら、腰を上げポーズをとって見せたりもしただろう。そのときはただ鏡から目を反らし、文庫本の文字を追っている。

 若い女性客が私の前で洋服を選んでいる。文庫本をたたみ、そちらを見た。
 視界に入った女性は端整な目鼻立ちをしていて、さぞかし男性に人気があるに違いない。性格も良いのかもしれない。
 けれど、私にとっては彼女の立ち振舞いに一瞬にせよ、胸を焦がすことがなくなっていた。これも昔では考えられないことだった。それは多分色々なことに疲れてしまったからだと思う。そして、そんな贅沢な悩みを抱えたときは、いつもこの公園に来て煙草を吸うのである。

 今日は平日の午前だからか人が少ない。空は曇りはじめている。おまけに手持ちの煙草もない。マラソンをしている中年の男性とアスレチックジムの周りで縄跳びをしている少年少女の二人組みが目に入るだけだ。

 草野球チームや中学高のサッカー部がいないためか、グラウンドはがら空きで寂しいものだ。その中で、ひときわ目を引いたものがあった。
 広大なグラウンドに沿いながら、少年がボールを蹴りながら走っている。下手なドリブルだった。一度ボールを思い切り蹴ったあと、猛スピードで走りながら追いつきさらに遠くへ蹴る。
 彼は一生懸命ドリブルの練習をしているのだが、やりかたを間違えているように思える。履歴書を何枚書いても却下され、面接を受けても落とされ続けた自分。それが今までの自分とダブって見えるのでやるせない。だからといってどうやって努力すればいいか、それは誰も教えてくれない。

 少年は正しいドリブルの仕方を覚えられるだろうか。僕も正しい努力の仕方が分かるだろうか。ともあれ、もう一度がんばってみるのも悪くない。その姿はとてもみっともなくても少年のように努力するだけのことはある。
 少年から勇気をもらった僕はアパートを目指すことにした。

 妻と結婚して三年になる。付き合いはじめてから数えると七年彼女と一緒にいることになる。今、僕は三十二歳だから二十代の半分以上を彼女と共におくってきたわけだ。
 よく考えてみると、彼女との思い出がすべてと思えるほどで、僕だけの思い出は殆どない。何かに胸を焦がしたり、失敗を乗り越えたり、感動したとき、いつも彼女がとなりにいた。一人になったことがないのだ。妻は勇気があるとあらためて関心する。
 
 目下の問題として、僕には仕事がない。けれど、彼女はそれを気にしない。代りに働いてくれている。休日には評判の店に行って食事をし、買い物をして、映画を見る。喧嘩もほとんどしない。他人から見れば幸せそのものの生活かもしれない。友人たちは口々に素晴らしいことだと言う。
 けれども、ふと心をよぎる不安をどう説明すればよいのだろうか。今まで築き上げてきたものが、なんらかの拍子で崩れ去る予感がするのだ。

 
 僕のそんな心の内を読んだ妻は突然いなくなってしまう。僕はそんな妄想によくとりつかれる。並木道をポケットに手を入れたまま歩く。風は冷たく、つま先は凍え始めている。
 父と子供らしき二人が入り口からこちらに向かってきた。父と子はキャッチボールを始めようとしている。どうせ、アパートに帰ってもやることなどないのだ。ならば少し観戦しようかと思った。

 近くのベンチに再び腰をかけた。ボールを子供に投げる父親をみてどれだけの苦労をしているのだろうかと考える。そして自分に子供を持つ資格はあるのだろうか。
 そういえば妻は最近、子供が欲しいと匂わせることがある。けれど私には子供について自信がない。わたしに任せてと妻は言うが、少しずつであるが彼女のことも信頼できなくなっている。多分それは今後への自分の見通しが暗く、自分のことを信頼できないからだと思う。

 そのとき、再びおかしなドリブルをしている少年が見えた。はじめて見たときから、かなり時間はたっている。まだやっていたんだ。
 相変わらず不器用だが、ドリブルをするフォルムが少し変わったような気がする。少なくとも、ボールを蹴飛ばす距離は短い。

 わずかな間に成長している少年を見ると、自分にも可能性があるのではないかと思い始めた。寒いなか必死に走り回っている少年は少しマシになったと思う。誰に教えられたわけでもなく。
 人生の正しいおくり方なんて誰も教えてくれない。だから、僕も少年のように正しい道を見つけなければならない。でも、どうやって?僕にはどうしたらよいか分からない。
 ベンチから立ちあがり、キャッチボールをしている親子を一瞥するとアパートへ戻ることにした。しかし足は重いままだった。
 
 妻が仕事から帰ってくるまで、僕の気持ちは落ち込んでいた。文句を言われることはないだろうが、がっかりさせるのは嫌だった。それに妻に当たってしまうかもしれない。気持ちを落ち着かせなければ、と思うと焦る。僕を期待させた妻に怒りをむけてしまうのは自分の性格と妻との関係から分かるのだ。

 妻は帰ってくると僕の表情から、何か察したようだった。おそらく当面は無職であることを。だから面接のことは聞かれず、今日の夕食のメニューについて話し始めた。僕との余計なトラブルを避けようとしたのだろう。          

 そんな妻の仕草を見ていると、自分はなんてわがままなままこの歳になってしまったのだろうかと思う。ひとまず仕事について安心させるどころか、気をつかわせているのだから情けない。フライパンで魚を焼いているうしろから僕は声をかけた。
「実はさ、今日の面接なんだけど駄目だったみたいだよ。向こうにも色々あってさ」
しばらく魚が油で揚がる音が続いた。僕は妻がなにを考えているのか解らなかった。僕には無言でフライパンを覗き込むしかできない。
「しょうがないんじゃない」
 返事をうけて僕は答えた。
「また仕事探さなきゃなあ」
 その声色には若干当てこすりが入っていたかもしれない。
「ぬか喜びさせてごめんなさいね」
 彼女の言葉を聞いて、僕は恥ずかしかった。いつまで僕は人に当たれば気がすむのだろう。変わらなければいけないのは分かっている。でも、どうすればいいのか。

 とりあえず、僕は彼女のつくった食事を感謝をこめて食べようと思った。僕が家でブラブラしている間、働きながら夕食までつくってくれている妻に申し訳ない気持ちだ。その気持ちをどうやって伝えればよいのか。
 テーブルには魚のソテー、サラダ、茶碗に盛られたご飯が湯気を立てている。なんだか金持ちの夕食みたいに見える。箸を持つ前に彼女を見つめる。
 疲れて色々なことに無感覚になるのも、自分の人生が間違った方向へ進んでしまうのも仕方がないのかもしれない。そして、大人になる以上それは止められない事かもしれない。
 けれど、少しでも僕はそれに抗ってみようと思う。だから僕は座ったまま真顔になり、彼女の手をとった。
「どうしたの?いきなり」
 彼女は驚いている。
「どうもありがとう」
 その言葉が彼女に伝わったと信じるしかない。
                                      <了>

 
   【作者紹介』 
    
    森田哲郎さん:目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」の受講生

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