遠い昔から繋がる・・・ 吉武一宏
日本人がいつからこの大地に現れたのか、正確には分かっていない。ただ、1970年に沖縄県の港川で約2万2千年前の旧石器時代の人骨が発掘された。
その人骨(港川人)からDNA解析によって、縄文人や弥生人や現在の日本人の直接の祖先ではないことが分かった。港川人は縄文人と共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。残念ながら港川人は子孫を残せず途絶えたとみられている。旧石器時代は約3万8千年前から1万6千年前までの約2万2千年間である。
その後、日本では縄文時代へと移っていく。
日本各地によって違っているが、縄文時代は約1万3千年前から3200年前までの約1万年間続いた。その後に弥生時代となる。縄文人から弥生人、そして現在の日本人へと続いていった。縄文人と弥生人の顔・形が違うのは狩猟民族が農耕民族となり、あごの発達等が変化した結果である。くわえて中国や南方の民族と新たな結合があったからであると考えられている。ともかくも、諸説あるが、日本人は縄文時代から約1万3千年も脈々と繋がって現在に至っているのである。
2024(令和6)年5月29日、格安九州ツアーで吉野ケ里歴史公園を訪れた。
吉野ケ里遺跡は佐賀県神崎郡(かんざきぐん)吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ケ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されている。およそ117ヘクタール(1,170,000m2)にわたる弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀を巡らせた集落)跡である。1986(昭和61)年からの発掘調査によって発掘され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園となっていた。
佐賀県知事が「邪馬台国」だと宣伝し話題になった遺跡である。私は「広い野原を観光名所として作られた公園程度だろう」と、思いながら入園した。
田手川に架かる天の浮橋を渡り、そのまま道に沿って奥に進む。古い薄汚れた木柵が目に飛び込んできた。左右に物見櫓のような建物が建っていた。見た瞬間は観光客を集める舞台装置のようなものだと軽く思った。中に入る。広い、学校のグランドの数倍もある広さだった。その中に茅葺き屋根の家が数軒建っていた。
ガイドの指示に従って、北墳丘墓まで進む。そこは吉野ケ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓だった。14基の本物の甕棺が展示されていた。甕棺と聞き、なんとなく気味が悪いと思ったが、お金を払ったので一応見ることにした。
私はせこい、性格である。
吉野ケ里遺跡は紀元前400年から紀元300年の700年間に渡って存在したといわれている。長い、実に長い期間だ。江戸時代の2倍強である。徳川は15代で終わった。「何人の王様が君臨していたのだろう」と、墳墓を観ながら考えてみた。
単純計算でいけば、40人弱である。当時は平均寿命も低かっただろうから、多分50人は王様として君臨していたのではないかと勝手に推測した。では、「なぜ、これほどにも長くこの地は存続できたのだろうか」と、疑問が沸いた。同時に、私は「2000年前の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか」と、二つ目の疑問が浮かんだ。
時間の都合で北墳丘墓から、駐車場に向かって戻る。道はコンクリートで固められたいた。
しかしながら、左右の道端は生い茂る野草で溢れていた。春にもかかわらず、暑い日差しが身を包み、野草の柔らかい香りが漂っていた。墳丘墓で感じた重苦しさが消えて行くのを感じた。
見学する時間はあまりないが、二つの疑問の答えを見つけるために南内郭に建てられた住居等を急ぎ足で見て回ることにした。
吉野ケ里遺跡には何人の人々が暮らしていたか、当然ながら諸説あり正確には分からない。一説には1,200人程度が暮らし、吉野ケ里を中心としたクニ全体では5,400人ほどが暮らしていたと言われている。
単に、人々が集まった集落ではない。国の形ができていたのだろう。支配者層と被支配者層に分かれていたことは、埋葬の違いで分かっている。ここに住んでいた人々の生活模様が少しは分かるように、南内郭には数々の四角い竪穴住居が並んでいた。竪穴住居とは地面を掘り下げて床面を構築した建物である。
寒さを防ぐためだろうか、家の真ん中には丸い囲炉裏のような穴があった。王様の家は他の家より少し豪華であった。隣の建物は「王の女の家」と書かれた説明看板が設置されていた。王と王女は別々に住んでいたのだ。私は、奈良時代から平安時代初期の風習だった「妻問い婚」だったのではと想像した。
「妻問い婚」とは夫が夜に妻のもとに通い、朝起きると自分の家に帰る風習である。弥生時代の風習が奈良時代まで続いていたのだろう。
近くには養蚕の家があり、機織りの家があった。支配者層は絹の衣服を身にまとっていたのだ。現在と同じだ。裕福な支配者は絹を身に着け、支配される側は一生懸命働きながら麻の衣服を着ていたのである。
支配者が生まれたのは、狩猟から稲作に生活様式が変わったためである。狩猟時代は獲物を求めて転々とあちこちを巡る。稲作になれば、一か所にとどまり生活圏を作っていく。知恵があり、体力があるものが広い大地を我が物とし、労働者を使って一層権力を持つようになったのではと説明看板を読みながら私は思った。
面白いことに「煮炊き屋」なる建物があった。
説明看板を読む前は、ここで暮らす人たちが集まる食堂だと思った。ところが違った。支配者層の王様や大人(たいじん)のための台所なのである。
それにしても私は知恵の回らない男であった。なぜならば、弥生時代には通貨などないのだ。全て、物々交換の時代である。お店などあるはずがない。なんと、トンマナ野郎だろうと自ら笑ってしまった。
近くに面白い家を見つけた。
私が大好きな「酒造りの家」である。これも王様や大人のためであろう。説明文には新米を蒸してと書かれている。どのようにして、お酒を造っていたのか調べてみた。
なんと、九州・近畿では加熱した穀物を口でよく噛み、唾液に含まれる酵素(ジアスターゼ)で糖化して野生の酵母によって発酵させる「口噛み」といわれる方法で、お酒を作っていたのだ。どんな人が考え出したのだろうと好奇心が沸いたが、たまたまお米を噛んでいるうちにお酒ができたのだろうという結論に達した。
とはいえ、いつの時代にも飲んべーはいるものである。
その他にも、南内郭には右の絵のように兵士の詰め所や集会の館や王の住まいとは別に支配者層の住まいが建てられていた。更には、食糧を保全する高床倉庫も建っていた。
南内郭は堀と木柵で囲まれ、物見櫓が3ヶ所と堅固に守られていた。稲作が始まり、支配者層と支配される層が生まれ、クニができた。結果、稲作のための水や蓄えられた食物を得ようとして戦いが始まったのではないかと思う。
そのために、兵士を作り、堀を掘り、木柵を建てるといった面倒なことが起きたのだろう。いつの世も人間とは愚かな動物であることかと情けなくなった。
700年も続いたと思われる吉野ケ里が平和であったわけではない。
吉野ケ里では丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋められていた。戦いで亡くなった人もいるが、腹部に10本の矢を撃ち込まれた人もある。何らかの罰で処刑されたのでは考えられている。また、当時は乳幼児の死亡率が高く、小さな甕棺もあるそうだ。決して、幸せな人々だけが暮らしていたわけではないようだ。
人の競争意識は今も昔も変わらないのではないだろうか。
上の写真をみてほしい。素敵な空間ではないか。
暖かな春の陽を浴びながら、私は目を閉じてみた。すると、裸の子供たちがどんな遊びをしているかわからないが、大きな声で笑いながら飛び跳ね、駆け回っている。その横では麻の寸胴(ずんどう)な服を着て帯を締めた人々が、楽しげに語らい生き生きと生活をしている姿が浮かんできた。
現代のように便利な機械や道具があるわけではない。全て、人の力で作られた町だ。みんな、ここで生まれ育って、そして死んでいく。私は思った。間違いなく、2000年前ここに人々は住み、短い寿命の中で一生懸命生きていたのだと。当時の人たちの正確な寿命は分からないが、現在よりは短かったことは間違いない。
親から子に、子から孫へとつないで行った。
現代とも変わらない、歯を食いしばって耐えなくてはいけない辛いことや、涙も枯れてしまうほどの悲しいこともあっただろう。同時に、天にも昇るような嬉しいこともあったのではないだろうか。
これは私の推測だが、最も嬉しいことは生まれた我が子が無事成長し、新たな家族を迎えた姿を見ることではなかっただろうか。なぜなら、当時の乳幼児の生存率は非常に低く、また成長しても戦などで死んでしまうことも多々あったのではと推測するからである。
「なぜ、700年もの長い時間クニが続いたのか」
「どんな暮らしをしていたのか」
二つの疑問に対する答えは見つからなかった。更に、新たな疑問が生じた。「ここに住んでいた人たちはクニが滅びたのちにどこへ行ったのだろうか」である。これも、答えは見つからない。しかしながら、私は人々はクニの名前が変わり、支配者が変わっても命を繋ぎ続けてきたと思っている。
DNA鑑定によって日本人は縄文人から現代人へと繋がっている。人は必ず死を迎える。しかしながら、繋ぐことができれば、新しい世界が生まれる。現在は一瞬にして人々を滅ぼしてしまう兵器もある。己の欲望のため人々を殺してはならない。生きている人にとって最も大切なことは次の時代へとバトンタッチすることだと私は思っている。
自らを決して消してはならない。次の世代へと繋ぐ、それこそが、今生きている人の務めであり、一万年以上に亘って続けてくれた祖先への感謝となるのではなかろうか。
2025年2月5日
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吉武一宏さんは、朝日カルチャー千葉の「フォト・エッセイ」の受講生です。