寄稿・みんなの作品

【孔雀船105号 詩】 思惑 岩佐なを

むかしむかしあるところに
も姉妹が次々生まれて徐々に
育って散り散りに歳を重ね
それなりの役目を果たして
死んでいった
あたりまえっちゃぁあたりまえに

皆の衆京橋は御存じか
(大阪ではなく東京のほう)
新富町はどうですか
そのあたりは聖路加病院が
あるために米軍のビイニジュウクの
爆弾から逃れられたと
言われているのだけれどほんとかな

飛行機.jpg

生まれた姉妹たちは拒んでも
育ち時間は前にしか進まず
あまつさえ非情にも後々
幻子さんは生麦に賞子さんは葉山に
燐子さんは八街に頓子さんは海神に
移って命を燃やしていき
胡桃さんは幕張に夜雨さんは鵠沼に
引っ越して行ってまぁ長くなるから
誰と過ごしたかは割愛するとして
そのあたりでどんどん古くなって

死んでいったとすると新富町から
千葉方面へいった千葉派
神奈川方面にいった神奈川派
大別できるわけで
どちらがいいとかわるいではなく
生まれてから亡くなるまでの
動いた道のりを実線で断固として
地図に描きたいのが思惑であり
追善ならではの心意気と

そのために姓名は付与されたのだし
もちろん当方の手腕は
高級色鉛筆で個人個人の色を変えて
わかりやすく工夫するつもり
老後の力ふり絞って
出生地は金の身籠り地は銀の
丸をつける
色鉛筆では金銀は特別色だからね、
さてと。

思惑(岩佐).pdf


【関連情報】
 孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船105号 詩】 ポンデローサ松の告白 高島清子

( 何よ あれはパイナップルの芯じゃないの )

詩人の声が降ってきたのだ

詩祭が良く開かれていたあの頃
ホテルの入り口に置かれていた大きな松ぼっくりに
足を止めたその人を私は覚えていた

はなや.jpg六本木のゴトー花屋は
カナダから着いたばかりの
クリスマス用の松ぼっくりを並べていたから
通りすがりの私はすぐさまあの詩人に贈ったのである
彼女の笑顔を想像して
 
( なんてお洒落なプレゼントあなたらしいわ )

詩人から電話が来た

松の木はパインニードルだけれど
いくら似ているとはいえパイナップルの芯であるわけはないのにと
苦い思いが長く残った

おそらくは羨ましく思った詩人の取り巻きの一人が
何気なく言ったのだとしても
素直に信じた詩人も無邪気なものだと
菩薩のような美しい唇から
何という言葉が発せられたものか

しかし松ぼっくりは今まで私を待っていてくれたのだ
ある日科学博物館の硝子の中にその名を見つけた
ポンでローサ松である

パイナップルの芯じゃないの
怒気を含んだ詩人の一言が私から消えた
どれ程似てはいても同じものはない
私に似ている人も私ではない
カナダの青い森はこの時も白い冬を振り落としている

ポンでローサ松の告白(高島).pdf

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船105号 詩】 深い霧  齋藤 貢

原子炉建屋が水素爆発した。

耳を疑うような知らせに
頭を抱えて
戸惑うひとがいる。
地団駄を踏むひとがいる。

原発事故.jpg呑みこめない朝を
無理に呑みこもうとすれば
言葉にならない
憤りが
喉もとにまでこみ上げてくる。

霧が晴れるにつれて
事のしだいが
少しずつ明らかになってきた。

戸外では
男のひとが大声で叫んでいる。
はやく逃げろ。
ここにいては危険だ、と。

坂道を避難所まで登ってきた老夫婦がいる。

地震や津波のあとに
放射線被曝の危険が
身に迫っているとも知らないで。

この土地で
草のように
いのちの高みに
両手を伸ばそうとしているひと。

余震が続いて
土のなかのこころとからだが
不安に揺れてやまなかったのだ。

できるだけ速やかに
遠くまで
避難しなければならないのに。

耕された土に
深く根を張りながら
必死にもがいているひともいる。

力の限りに歯を食いしばっても
からだとこころをつなぐ
いのちの細い糸が
いまにも千切れそうだ、と。

襲ってくる
もっと恐ろしいものを
ひそかに隠すように
霧がまた
この土地にたちこめてくるだろう。

深い霧に包まれて
事のしだいは
なかなか詳らかにならないが――。

あの日から
放射線被曝の
漠然とした不安が
大地とわたしたちのからだを棒で叩いている。
こころの池の水を激しく揺らしている。

「深い霧」 斎藤.pdf

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船105号 詩】この夏 吉本洋子

夏を見ていた
庭のレモングラスが焼け焦げて
ただの茅にかえって
うな垂れて
この夏はあの夏に

あの夏
お前が押せよ
嫌だよ お前が押せよ
一列に並んだ物の怪めいた人間の列が
声を掛け合っている
血を吐くほどの声だったろうか
崩れるほどの引きつった顔だったろうか
人間だから

植木にmiziyari.jpg今年の夏は水遣りが間に合わなくて
気に入りの鉢を幾つも枯らしてしまった
私の怠惰が大事なものを失わせる
命を繋ぐ一番当たり前の事柄を
いとも簡単に後回しにした
この夏
刑務官の忌避するスイッチは4つ
自分ではなかったという免罪符の揺れ幅が
笑えるくらい貧しい

あの年のあの夏
そのスイッチは幾つ並んでいたのか
どんな目くらましで
人間だったら押せないそれを
カモフラージュしたのか
人間だったら押せないそれを
人間が押したのかあの夏に


夏を見ていた(吉本).pdf


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【孔雀船105号 詩】かきつばた 藤井 雅人

淫雨の下に 群れ集まった緑の剣が
逆さ立ち おまえに告げる
――逸走する不住のこころの
ここが 辿りついた終端と

橋は折れ曲がり
透いた泥濘に足は行きなやむ
雫が身に細穴をうがつなか
胸うちの堰は黒い水の底にしずむ

緑の剣が いっせいにそよぎ 反りかえる
                      カキツバタ.jpg
(からころも きつつなれにし つましあれば)

宙にゆらぐ 青い炎たち
ひとつひとつの 花のつめたさが
おまえを迎えとるだろう
氷に熱した舞いの渦に
ひややかな錯視の檻に

(はるばるきぬる たびをしぞおもふ)

かきつばた(藤井.pdf)

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【孔雀船105号 詩】 二〇二四年 秋 尾世川正明

   ある日

まがったもので撫でる
とがったもので刺す
おのれの頭蓋骨のなかに暗い間隙を受け入れて
もうあと十万回
心臓の拍動をかぞえる
心臓000.png
   岩場

その岩陰では
お産をしない習わしだった
そこは地磁気がすこし強すぎて
頭が狂ってしまうし
時に蛇が卵を産んでいるので
お産には向いていないのだ

   丘陵地

広い丘陵地にはいくつかの詩が重なり合い
大地にトランポリンのような弾みと
輝きを与えている
青空からひかりとなってゆっくりと降ってくる
したたり落ちる乳と蜜

   樹

樹にも感情があるのだろうか
雨を浴びて気持ちがいいとか
激しい強い夏の陽射しは
葉のおもてに張ったかたい嫌悪の緑で
はじき返してしまいたいとか
風が渡る明るい朝には
樹液をしみ出して
かわいい虫たちに吸わせてやろうとか

   二月

二月が始まり立春もすぎて
雨水と呼ばれる季節のことである

それは紐を解いたひな人形の古い埃の匂いではない
開きかけた紅梅の甘い香りでもない

遠い距離を風に乗って漂ってきたちいさな粒子が
鼻粘膜につくと成長して手足を伸ばし
美しい姫になった

   旅

山間の谷で
老人が死んだとき
子供の周りにいたのは
一緒に育った
山羊と雌鶏と猟犬だけだった
老人を土に埋めてから幾日か
子供は山羊と雌鶏と猟犬をつれて
遠い星の赤い沙漠へと
旅立った

   言葉

言葉で作り出した目に見えないもののために
愛された人々の命を奪うものたちよ

地獄に落ちよ

言葉は愛された人々を飾る軽やかな衣裳となれ
愛された人々が踊る愉快な音楽となれ

二〇二四年 秋  (尾世川).pdf

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*各短詩間の行数、題の行数などは編集にお任せします。

【孔雀船105号 詩】 夜空の向こう側 脇川郁也

ふり返ると
紫色の空にいくつか星の光が見えた
見晴台から望む街の夜景を眺めながら
あのひとつひとつに
だれかの家庭があるんだねと
あなたはつぶやいた

なだらかな長い坂道を
ふたりで登った
いつの間にか息が上がっていて
そっとつないだ手を引き合って笑った

明かりの数だけある家庭で
暖められる笑い声もあるけれど
時がたつと
あきらかな月の光が
いつの間にか雲にかすんでしまう

知らぬ間に闇が降りてきて
世界を覆ってしまうことがある
どれだけ手を伸ばしてみても
届かないもどかしさに
秋の風はいつも吹き来るのだ

虫が鳴いているね
あれはね、羽を擦り合わせているんだ
恋する人を呼んでいるんだ
でもそれが
哀しげに聞こえるのはなぜだろう

ワイン.jpg予約したのは
夜景がきれいなレストラン
すこし気取って
ぼくらはワイングラスを傾ける
弾けるようなグラスの音に
見つめ合って笑顔を交わした

夜空の片隅に星が流れた
遠く音もなく
光を点滅させたジェット機が
飛んで行く
ポケットの膨らみは君に贈るプレゼント
どこにも月は見えなかった

夜空の向こう側(脇川.pdf


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イラスト:Googleイラスト・フリーより

遠い昔から繋がる・・・ 吉武一宏

 日本人がいつからこの大地に現れたのか、正確には分かっていない。ただ、1970年に沖縄県の港川で約2万2千年前の旧石器時代の人骨が発掘された。

 その人骨(港川人)からDNA解析によって、縄文人や弥生人や現在の日本人の直接の祖先ではないことが分かった。港川人は縄文人と共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。残念ながら港川人は子孫を残せず途絶えたとみられている。旧石器時代は約3万8千年前から1万6千年前までの約2万2千年間である。

吉武②.jpg  その後、日本では縄文時代へと移っていく。
 日本各地によって違っているが、縄文時代は約1万3千年前から3200年前までの約1万年間続いた。その後に弥生時代となる。縄文人から弥生人、そして現在の日本人へと続いていった。縄文人と弥生人の顔・形が違うのは狩猟民族が農耕民族となり、あごの発達等が変化した結果である。くわえて中国や南方の民族と新たな結合があったからであると考えられている。ともかくも、諸説あるが、日本人は縄文時代から約1万3千年も脈々と繋がって現在に至っているのである。


 2024(令和6)年5月29日、格安九州ツアーで吉野ケ里歴史公園を訪れた。

 吉野ケ里遺跡は佐賀県神崎郡(かんざきぐん)吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ケ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されている。およそ117ヘクタール(1,170,000m2)にわたる弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀を巡らせた集落)跡である。1986(昭和61)年からの発掘調査によって発掘され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園となっていた。

 佐賀県知事が「邪馬台国」だと宣伝し話題になった遺跡である。私は「広い野原を観光名所として作られた公園程度だろう」と、思いながら入園した。


 田手川に架かる天の浮橋を渡り、そのまま道に沿って奥に進む。古い薄汚れた木柵が目に飛び込んできた。左右に物見櫓のような建物が建っていた。見た瞬間は観光客を集める舞台装置のようなものだと軽く思った。中に入る。広い、学校のグランドの数倍もある広さだった。その中に茅葺き屋根の家が数軒建っていた。
 
 ガイドの指示に従って、北墳丘墓まで進む。そこは吉野ケ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓だった。14基の本物の甕棺が展示されていた。甕棺と聞き、なんとなく気味が悪いと思ったが、お金を払ったので一応見ることにした。
 私はせこい、性格である。

吉武 九.jpg
 吉野ケ里遺跡は紀元前400年から紀元300年の700年間に渡って存在したといわれている。長い、実に長い期間だ。江戸時代の2倍強である。徳川は15代で終わった。「何人の王様が君臨していたのだろう」と、墳墓を観ながら考えてみた。
 単純計算でいけば、40人弱である。当時は平均寿命も低かっただろうから、多分50人は王様として君臨していたのではないかと勝手に推測した。では、「なぜ、これほどにも長くこの地は存続できたのだろうか」と、疑問が沸いた。同時に、私は「2000年前の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか」と、二つ目の疑問が浮かんだ。

 時間の都合で北墳丘墓から、駐車場に向かって戻る。道はコンクリートで固められたいた。
 しかしながら、左右の道端は生い茂る野草で溢れていた。春にもかかわらず、暑い日差しが身を包み、野草の柔らかい香りが漂っていた。墳丘墓で感じた重苦しさが消えて行くのを感じた。

 見学する時間はあまりないが、二つの疑問の答えを見つけるために南内郭に建てられた住居等を急ぎ足で見て回ることにした。
 吉野ケ里遺跡には何人の人々が暮らしていたか、当然ながら諸説あり正確には分からない。一説には1,200人程度が暮らし、吉野ケ里を中心としたクニ全体では5,400人ほどが暮らしていたと言われている。
 単に、人々が集まった集落ではない。国の形ができていたのだろう。支配者層と被支配者層に分かれていたことは、埋葬の違いで分かっている。ここに住んでいた人々の生活模様が少しは分かるように、南内郭には数々の四角い竪穴住居が並んでいた。竪穴住居とは地面を掘り下げて床面を構築した建物である。

 寒さを防ぐためだろうか、家の真ん中には丸い囲炉裏のような穴があった。王様の家は他の家より少し豪華であった。隣の建物は「王の女の家」と書かれた説明看板が設置されていた。王と王女は別々に住んでいたのだ。私は、奈良時代から平安時代初期の風習だった「妻問い婚」だったのではと想像した。

吉武 ③.jpg
「妻問い婚」とは夫が夜に妻のもとに通い、朝起きると自分の家に帰る風習である。弥生時代の風習が奈良時代まで続いていたのだろう。
 近くには養蚕の家があり、機織りの家があった。支配者層は絹の衣服を身にまとっていたのだ。現在と同じだ。裕福な支配者は絹を身に着け、支配される側は一生懸命働きながら麻の衣服を着ていたのである。
 支配者が生まれたのは、狩猟から稲作に生活様式が変わったためである。狩猟時代は獲物を求めて転々とあちこちを巡る。稲作になれば、一か所にとどまり生活圏を作っていく。知恵があり、体力があるものが広い大地を我が物とし、労働者を使って一層権力を持つようになったのではと説明看板を読みながら私は思った。


 面白いことに「煮炊き屋」なる建物があった。
 説明看板を読む前は、ここで暮らす人たちが集まる食堂だと思った。ところが違った。支配者層の王様や大人(たいじん)のための台所なのである。
 それにしても私は知恵の回らない男であった。なぜならば、弥生時代には通貨などないのだ。全て、物々交換の時代である。お店などあるはずがない。なんと、トンマナ野郎だろうと自ら笑ってしまった。

 近くに面白い家を見つけた。
 私が大好きな「酒造りの家」である。これも王様や大人のためであろう。説明文には新米を蒸してと書かれている。どのようにして、お酒を造っていたのか調べてみた。
 なんと、九州・近畿では加熱した穀物を口でよく噛み、唾液に含まれる酵素(ジアスターゼ)で糖化して野生の酵母によって発酵させる「口噛み」といわれる方法で、お酒を作っていたのだ。どんな人が考え出したのだろうと好奇心が沸いたが、たまたまお米を噛んでいるうちにお酒ができたのだろうという結論に達した。

 とはいえ、いつの時代にも飲んべーはいるものである。

 その他にも、南内郭には右の絵のように兵士の詰め所や集会の館や王の住まいとは別に支配者層の住まいが建てられていた。更には、食糧を保全する高床倉庫も建っていた。
 南内郭は堀と木柵で囲まれ、物見櫓が3ヶ所と堅固に守られていた。稲作が始まり、支配者層と支配される層が生まれ、クニができた。結果、稲作のための水や蓄えられた食物を得ようとして戦いが始まったのではないかと思う。
 そのために、兵士を作り、堀を掘り、木柵を建てるといった面倒なことが起きたのだろう。いつの世も人間とは愚かな動物であることかと情けなくなった。

吉武 7.jpg
 700年も続いたと思われる吉野ケ里が平和であったわけではない。
 吉野ケ里では丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋められていた。戦いで亡くなった人もいるが、腹部に10本の矢を撃ち込まれた人もある。何らかの罰で処刑されたのでは考えられている。また、当時は乳幼児の死亡率が高く、小さな甕棺もあるそうだ。決して、幸せな人々だけが暮らしていたわけではないようだ。

 人の競争意識は今も昔も変わらないのではないだろうか。

吉武 十.jpg 上の写真をみてほしい。素敵な空間ではないか。
 暖かな春の陽を浴びながら、私は目を閉じてみた。すると、裸の子供たちがどんな遊びをしているかわからないが、大きな声で笑いながら飛び跳ね、駆け回っている。その横では麻の寸胴(ずんどう)な服を着て帯を締めた人々が、楽しげに語らい生き生きと生活をしている姿が浮かんできた。

 現代のように便利な機械や道具があるわけではない。全て、人の力で作られた町だ。みんな、ここで生まれ育って、そして死んでいく。私は思った。間違いなく、2000年前ここに人々は住み、短い寿命の中で一生懸命生きていたのだと。当時の人たちの正確な寿命は分からないが、現在よりは短かったことは間違いない。

 親から子に、子から孫へとつないで行った。

 現代とも変わらない、歯を食いしばって耐えなくてはいけない辛いことや、涙も枯れてしまうほどの悲しいこともあっただろう。同時に、天にも昇るような嬉しいこともあったのではないだろうか。

 これは私の推測だが、最も嬉しいことは生まれた我が子が無事成長し、新たな家族を迎えた姿を見ることではなかっただろうか。なぜなら、当時の乳幼児の生存率は非常に低く、また成長しても戦などで死んでしまうことも多々あったのではと推測するからである。
「なぜ、700年もの長い時間クニが続いたのか」
「どんな暮らしをしていたのか」
 二つの疑問に対する答えは見つからなかった。更に、新たな疑問が生じた。「ここに住んでいた人たちはクニが滅びたのちにどこへ行ったのだろうか」である。これも、答えは見つからない。しかしながら、私は人々はクニの名前が変わり、支配者が変わっても命を繋ぎ続けてきたと思っている。

 DNA鑑定によって日本人は縄文人から現代人へと繋がっている。人は必ず死を迎える。しかしながら、繋ぐことができれば、新しい世界が生まれる。現在は一瞬にして人々を滅ぼしてしまう兵器もある。己の欲望のため人々を殺してはならない。生きている人にとって最も大切なことは次の時代へとバトンタッチすることだと私は思っている。
 自らを決して消してはならない。次の世代へと繋ぐ、それこそが、今生きている人の務めであり、一万年以上に亘って続けてくれた祖先への感謝となるのではなかろうか。

                                 2025年2月5日

「関連情報」

 吉武一宏さんは、朝日カルチャー千葉の「フォト・エッセイ」の受講生です。

令和はもはや六年が経つ。下田尚嶽「七言絶句」の作品からふりかえる(1/3)

 昭和は戦争つづきの激動の時代だった。一変して平成はいろいろな出来事もあるが、戦争から解放されて平坦であった。
 令和は六年目に入った。世界を見渡せば、ヨーロッパ、中近東の戦争、さらにアジアまで中国・台湾の緊張が高まっている。わが国はことし正月早そうから、まさかという大惨事がおきた。
 先行きは嫌な予感もするが、戦争には巻き込まれないでほしい。ただ願うだけでなく、国民が戦争をしない代議士を選ぶべきなのだ。

 明治以降の改元は、天皇の「一世一元」制である。まだまだ先のある話しだが、令和の先の天皇は男系に拘泥するのか、あるいは女性天皇が誕生するのか。国民の関心は高い。選挙の焦点になってほしかったな。

 第二次世界大戦の終結において、日本はポツダム宣言(13の条件)を受け入れた。そのなかの一つには、天皇に権限が集中する軍国主義を排し、民主的な国民主権の政府をつくるという条件があった。
 一般にいわれる日本は無条件降伏ではない。(ドイツはヒットラーが自殺し無政府になったから、無条件降伏で、東西ドイツが分断された、占領軍による直接統治)。
 日本の場合は13の条件を受け入れて降伏した「条件降伏」である。けっして無条件降伏ではなかった。国会も、日本人による政府も、そのまま継続できた。アメリカを代表する占領軍の立場からすれば、13の条件を日本が成すまで見守る間接統治だった。

 そのうえで、天皇親政を排除し、新たな国民国家として、日本人の手による日本国憲法ができた。同時に、民主主義の理念から「国民がみずから皇室典範を変更できる」ことになった。これも戦後の日本政府がみずからつくった。当時の昭和天皇は現人神(あらひとがみ)でなく人間宣言をなされた。

                     *

 さかのぼれば、明治二十二年に、伊藤博文による大日本帝国憲法と皇室典範が同時に制定された。皇室に関する規定はすべて皇室典範に組み入れられた。その結果、帝国議会(国民の代表)は皇室に関する事項については、まったく関与することができなかった。まさに「天皇は神聖にして犯すべからず」であった。

 しかし戦後、この旧皇室典範は廃止された。新「皇室典範」(昭和22年法律第3号)は名称をそのまま残しているが、神道的儀礼部分を削除して簡素化された。内容は皇位継承、皇族の範囲、摂政(せっしょう)、成年・敬称・即位の礼、皇族が結婚するときの手続き、皇籍離脱、皇室会議の仕組みなどについて定めている。

 この皇室典範はふつうの法律とおなじ扱いである。国会で変更できるのだ。国会の代議士が過半数をしめれば、皇室典範の改定で女性天皇も可能になるのだ。(憲法改定のような2/3というハードルの高さはない)。
 つきつめれば、政治家(代議士)でなく、国民一人ひとりが天皇を決められるのだ。

 こんな思慮をしているさなかに、「のこぎりキング下田」さんから、漢詩を四点ちょうだいした。七言絶句だった。


       下田尚嶽作「祝賀恩列の儀に題す」(しゅくが おんれつのぎに だいす)

下田 漢詩 天皇.JPG

晴朗皇居爽気催  光輝宝冠興佳哉

歓迎祝福天恩洽  歓正是令和幕開

 祝賀パレードは晴天だった。すがすがしい雰囲気のなか、皇居・宮殿より赤坂御所へ出発された。秋の強い日差しに照らされた皇后雅子さまのティアラが燦然とかがやき、とてともうつくしい。
 沿道を埋めつくした観客者は、日の丸をふって祝福する。天の恩恵で万民が福を受け広くゆきわたる。

 天皇・皇后両陛下は、国民に感謝のこころを恩顔で応える。

 まさに令和の幕開けを披露した祝賀パレードの儀となる。

               ☆ 

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「関連情報」 七言絶句(しちごんぜっく)とか、五言絶句(ごごんぜっく)とか、学校の国語で習ったな。もうわすれたな。何だったけ......? そうだ、一句あたり何文字か、それを数えればよいのだ。句のなかに七文字の漢字があれば、七言絶句だったな。

 

未来に危機を、太古にロマンを。下田尚嶽「七言絶句」の作品から(2/3)

  地球環境はきびしい。動植物の生態系の狂い、温暖化など気候の兇変、核戦争の予知など、この破壊は一体どこまで進むのだろうか。
 
 人間は欲が強い。必要以上にかかえこむ習性がある。ほかの動物にはないものだ。大金持ち、武器商人、科学者などはあくなき欲と、進歩という破壊をおこなう。個人および国家の利益が破壊循環をつくりだしている。

「人間よ。もう700万年の歴史に区切りをつけて、ここらで地球の表面から立ち去ってくれ」と40億年におよぶ地球から、人類に退避命令が出てそうな気配だ。私たちの子々孫々、わずか2、3世紀先でザ・エンドとなるのか。SFの世界でとどまればよいのだが......。

 2000年の眠りから目覚めた古代のロマン「大賀蓮(オオガハス)」がある。
 昭和26(1951)年3月30日の夕刻、花園中学校(千葉市)の女子生徒・西野真理子さんが古い地層の地下約6mの泥炭層から、ハスの実を1粒を発掘した。さらに翌月6日には2粒、計3粒のハスの実が発掘されたのだ。大賀一郎博士が発芽・生育に成功した。蓮として世界最古だという。
 こうした古代ロマンには、新鮮な息吹を感じさせてくれる。


     世界最古の大賀蓮を観る (作・下田尚嶽)

下田 大賀蓮.JPG 

       佛暁池塘満紅蓮  清風一陣郁香伝 

       出泥緑蓋揺揺処  玉露煌煌映日鮮 

  明け方の池に縄文時代の蓮の紅い花が一面に咲いている。
  さわやかな風がひとしきり吹き、より香りがだたよう。
  泥のなかに清らかな花を咲かせる。蓮の葉がゆらゆらとゆれうごく。
  玉のような露がキラキラ光りかがやき、太陽を映し鮮やかであった。

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