3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(3)閖上=阿鼻地獄を見てきた顔

 仙台市に隣接する名取市の、閖上(ゆりあげ)漁港に出むいた。町は死んだというよりも、消えていた。視界のなかで確認できる構造物となると、破壊された東禅寺、1階が吹きさらしとなった笹カマボコの工場、そして原形が残る閖上中学校の三階建て校舎のみだった。他はすべて整地された更地で、建物の区画がわかる土台だけが残る、『無』の世界である。

「ここは魚市場だったんですよ。跡形もないけれど」
 その敷地の横で、佐野謙三さんが車を停めた。閖上は赤貝、ほっき貝の有名な産地だという。
「港に係留する、漁船がまったくいなくなった。大震災の前は、この岸壁には漁船がびっしり詰まり、釣り人が竿を投げる隙間もないほどだったのに……」
 と謙三さんは絶句していた。いまや漁船は10隻にも満たない。

「仙台や名取の人はだれもが、大地震のあと津波がここに来るとは予想していなかったんです」
 3.11の大津波は約8メートルの高さで、海岸から襲いかかってきた。仙台平野は海岸からどこまでも平坦な地形だ。大津波の速度と勢いは収まらず、住民のほうは使い慣れた車で避難しようとした。だが、大渋滞で逃げきれなかった。

 大津波は港の漁船を陸上の奥まで打ち上げ、人家をことごとく破壊し、人々の命を一度に奪っていった。数千人が逃げ切れずに死んだのだ。


 7か月経ったいま、閖上の建造物や構造物の残骸や残材が、海岸の一角に集積されていた。5メートルほどの廃材の山が幾つも目立つ。それぞれ複数のシャベルカーが荒々しくつかみあげてダンプカーに積み込む。海岸から町全体を見渡しても、動きのある光景はその一連の作業しかなかった。
 
 周辺には古墳の形状に似た、高さ10メートルの盛り土が幾つもある。瓦礫撤廃の作業者たちが、もし次なる大津波に襲われたときに逃げる高台だという。

 漁港だけに、船を海上から陸に引き揚げる船台レールがある。ひん曲がっている。その先には倒壊家屋の廃材、ゴムタイヤ、布団、漁具、家具、材木とあらゆるものが山積みされていた。一区画だけでも7台のシャベルカーがそのアームをせわしなく動かしていた。

 約3メートルほど離れた場所には、木製の険しい形相の仏像が一体置かれていた。しゃがんで手を合わせると、目線がちょうど合う高さだった。その顔は目がつりあがり、口もとは歪み、いまなお阿鼻地獄のなかにいる表情に思えた。
 仏像を見つけた作業員が、おおかた廃棄物として処理するには忍び難く、取りおいているのだろう。安置して供養されている様子ではない。いましがた発見された像かもしれない。

 私がいつまでも凝視していると、仏像のほうから、
「住民はみな平穏に生きていたのに、一瞬にして死者となり、今なお無間地獄をさ迷い、苦しみを受けている。あなたの筆で、世に知らせてほしい」
 と訴えている表情に思えた。少なくとも、仏像が私の心をとらえて放さなかった。

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小説取材ノート(2)仙台・若林区=二つの偶然で、命拾い

 大災害とか、大事故には生と死を分ける、偶然性のドラマは必ずある。そのまま小説化すると、却ってリアリティーのない作品になってしまうから不思議だ。

 長年使ってきた血圧計が3.11にふいに不具合になる。それが一日違いならば、佐野謙三さん(65)は間違いなく死んでいたという。絶妙なタイミングで命拾いしている。

 謙三さんは2年前にJR関連会社をリタイアしている。奥さんはいまも勤務を続けるので、かれが家事を受け持ち、朝、昼、夜、とタイムスケジュールで日々を過ごす。同居する92歳の父親・良蔵さんの世話も組み込まれている。

 謙三さんにとって、自由な時間は昼食後からである。かれは乗用車で、仙台市若林区の荒浜から名取市の海岸(スポットとしては6カ所)に出向き、好きな海釣りをしたり、ウォーキングをしたりする。それが日課の一つ。
「家の回りのウォーキングは、リタイア老人に成り下がったようで、一切しないんです」

 海が大好き人間。10年前に亡くなった、母親譲りだという。

「母親は四国・今治市出身で、幼少女の頃から海釣が大好きだったそうです。看護婦になり、満州の病院に勤務し、そこで結婚し、終戦後に引き揚げてきてから、父の故郷である仙台で半生を過ごしています」
 母親は瀬戸内に里帰りしても、伝馬船で毎日沖に出て、一本釣りで大きな魚を釣り上げていた。

「ボクは母の里帰りの夏休みが、最大の楽しみでした。祖父母が瀬戸内の島暮らしでしたから、もう釣り三昧です」
 歳月が流れて、母親は80代になった。それでも海釣りが大好きだったという。謙三さんは勤務先が休みになると、親孝行のつもりで、母を仙台港まで車で連れて行き、夕方になると迎えに行っていた。
「釣りは集中力ですね。ボクの3倍は釣っていました。『お婆ちゃんが、こんなにもたくさん釣ってる』と岸壁で覗き込む人はみな驚いていました。血筋ですね、ボクはともかく海が大好きなんです」

 そんなふうに語る謙三さんの話が、3.11に及んだ。
 92歳の父親が、今朝から血圧計の調子が悪いという。謙三さんが点検しても不具合が生じる。
「もう寿命だから、買い替えた方が良いよ」
 高年齢者の血圧測定は大切である。どうせ買うなら、早い方がよいだろう、と考えた謙三さんは、昼食後の片付けが一段落すると、海辺のウォーキングは後回しに決めてから、乗用車で仙台駅前の量販店に向かった。

 ものの数分、陸上自衛隊駐屯地の横にさしかかった時、車体が大きく上下左右に揺れた、さらにバンドする。急停止した謙三さんは車から出ても、立っていられず、両手をついたと話す。激しい余震が続けざまにきた。これでは量販店に行っても、営業停止だろう。

 そう判断すると、かれは自家に引き返してきた。父親は無事だった。家のなかは家具や食器などが散乱しており、片づけを始めたという。

「3月はまだ寒いし、窓を閉め切って片付けをしていました。自衛隊駐屯地が近くて、すべての窓が防音ガラスなんです。だから、防災無線が聞こえず、津波による避難の呼びかけもわからず、ずっと家にいました。電気が止まり、TVも見られず、状況がまったく判りませんでした」
 謙三さんは周辺住宅で、避難せずはきっとわが家だけだろう、と苦笑する。

 大地震の後に津波がくる。その考えはなかったのですか、と聞くと、「仙台には大津波の歴史がないし、大地震=仙台に津波がくる。その考えはまったくありませんでした。ぼくが海岸でウォーキングしていても、津波は警戒しなかったでしょう。それは三陸のリアス式海岸の話だという先入観がありましたから。ボクは間違いなく津波にのみこまれていたはずです」と話す。
 
 3.11で、宮城県が大津波で未曽有の死者と行方不明者を出したのは、謙三さんと同じ考えだったからだろう。と同時に、仙台平野はどこまでも海岸との高低差がなく、三陸海岸のように裏山がないので、津波被害が広域に出たのだ。
 
 かれはもう一つ幸運を語る。

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小説取材ノート(1)仙台市=原爆ドームから東北被災地へ

 2011年3月16日13時46分に、巨大地震の東日本大震災が発生した。その直後から、ジャーナリストたちが現場から生々しく状況を報道してきた。とくに大手マスコミは機動力にものを言わせ、世界に向けて大惨事を発信してきた。
 一方で、全国から大勢のボランティアが東北地方の現地に入り、復旧に手を貸してきた。

 大災害から2か月、3か月と月日は経っていく。
 「私には何ができるのだろうか」
 と常に自分に問いつづけてきた。この際は被災地に飛んでいき、被災者への援助、手助け、片付けなど体力を使うべきだろうか。と同時に、一度は大災害の生々しい現場、リアルな状況を見ておくべきではないか、という衝動に駆られていた。
 そうではない。私は作家として、なにか別の役割があるはずだ、と圧えた。

「文学は災害に対して何ができるか」
 作家の立場で、被災者一人ひとり、あるいは一家族と向き合う。そして、小説で書き残す、それしかないと結論づけた。

 早くに被災地に入れば、大自然の恐怖、倒壊、破壊の物理的な惨事に目を奪われてしまい、私自身が距離感をなくすだろう。距離感のない作品は、作者の空回りで、駄作になってしまう。

 小説は災害の惨(むご)を伝えるものではない。数奇な運命を語るものではない。大震災で、人間の生き方、考え方、ものの見方がどう変わったのか。そこを書くのだ。小説は報道ではない、人間を書くことだ、と律してきた。

 個人商店のような小説家の出番は、災害発生から約半年が経った頃かな、とあえて抑えてきた。とはいっても、被災現場が漸次片付けられていく。やがて災害の痕跡がなくなり、何も書けないのではないか。その焦燥感がたえず付きまとっていた。
 
 11月半ば、行動を起こすことに決めた。大津波の被災地となった仙台市・若葉区、名取市、陸前高田市を当座の取材先とした。

 その1週間前の11月7日、私は広島原爆ドームの前に立っていた。大勢が火炎や白血病で死んだ、投下後の様子(資料から)を思い浮かべた。太田川の川船にも乗ってみた。私が小学校低学年の頃、川沿いは被災者のバラック建がずらり並んでいた。
 一方で、大災害を小説として書くのは何十年ぶりだろうと、考えていた。

 小説習作時代、おおかた30代後半のころ、私は原爆投下後の、両親を失った悲惨な兄妹を書いた。まずは広島平和記念資料館で、原爆関連資料を徹底して読み込み、焼けただれた人間の写真なども脳裏に刻みこんだ。原爆の恐怖が夢に出てくるまで熟知したうえで、ストーリーを構成し、書き上げた。

 恩師の伊藤桂一氏から、「これは児童文学だね。環境は厳しいけど、低いところでまとまっている。小説はもっと厳しく書かないとダメだよ」と酷評された。それが理解できるまで、十数年かかった。

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