3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(33)陸前高田=カキ養殖復興はまず中学生から

 3.11の大津波では、晴男さんは自宅こそ、無事だったが、約30年かけて築き上げた、漁船も、イカダも、海上の財産を一切合財奪われてしまった。
「私は若いころ、貧しい漁師の親の職業を嫌い、東京に出てトラックの運転手をやっていました。同郷の女房と知り合い、子どもができて、将来を考えたとき、米崎に帰ってカキ養殖をやろう、と意を決したんです」
 そう語る晴男さんは工夫好き、創作好きの性格だ。

 それらが幸いし、カキ養殖の品質アップにつながり、東京築地でも、1番2番を争う良質のカキ出荷までこぎ着けた。子は親の背中を見て育つ。将来性への疑問はなかったのだろう、息子たちは結婚し、カキ養殖業にたずさわる。
 10人家族で、息子夫婦たちを含め、全員がカキ養殖業である。カキ養殖の跡取りには不自由なしだった。

 どんな産業でも、とくに跡取りがいない方は再興の気迫を失くしていた。
 カキ養殖業となると、約3千万の漁船を買い求め、イカダを造り、漁具、カキの種を借金で買い求める必要がある。後継者がいなければ、虚しい。自宅をも新築すれば、貯金をはたいても、ローンは必然だ。
 大津波がまたいつか来るかわからない。いまさらリスクを背負いたくない、と多くの漁師たちは尻込みをしていた。

 晴男さんは中学生のカキ養殖体験を10年間にわたり続けてきた。広田湾のカキは全国のプライスリーダーであり、東京築地市場のカキのセリでは一番の値がつく。中学生の養殖体験で、生徒たちに漁師になれとは言わない。『高田のカキは日本一だ』と体験的に知ってもらいたいのだ。

「1年から3年生まで、漁船で沖のイカダに出ていく。1年では種付け、2年では温湯駆除(おんとうくじょ)、3年では収穫期にナイフで身を取り出す。やがて、大人になれば、カキがふるさと自慢になる」
 晴男さん一家による、米崎中学のカキ体験学習だった。夫婦して、(自費?)、中学生専用のイカダを造り、毎年欠かさず、体験学習を続けてきたのだ。

「大津波にやられたからと言い、止めるわけにはいかない」
 彼は米崎周囲がまだ瓦礫とヘドロとで泥濘み、1メートル先が進めないときから、中学生専用イカダを探しはじめた。それらは田んぼに打ち上げられていた。無残な姿をさらす。

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小説取材ノート(32)陸前高田・米が埼=津波と、漁師と、歴史と

 三陸地方はリアス式の入江や小港が連続する。それぞれに漁業が発達している。車で5分も走らせれば、漁法が違う。カキ養殖の場合は、杉丸太のロープの結び方がそれぞれ違う。陸前高田市の米崎地区は杉の丸太を使う。唐桑町ではイカダに竹を使う。

 大船渡になれば、4億円で遠洋漁業の船を買う。隣り合う湾内はワカメ漁である。漁師や漁船員たちの気質も違う。復興への態度も考え方も違ってくる。


 陸前高田市の米崎岬は広田湾の北に突きだす。3方が切り立った断崖で、海城の構造を持つ。東西約300m、南北200mの規模の城郭である。土塁や空堀などが現存する。

 敵から兵糧攻めを受けたとき、兵士が岩壁の上から、大量の米を流して水に見せかけた。『滝があるんだぞ、登れないぞ』とカムフラージュした。このことから、「米崎城」と名付けたという由来がある。
 西暦1300~1500年代の築城。造った武将の名は不明だが、城主・浜田広綱(千葉安房守)と大和田掃部(安房守配下の広田城主)の墓がある。
 本丸は丘陵の上部にあり、八幡神社も鎮座する。推定・海抜40メートルで、広田湾や広田半島が一望できる。海側の半島から、大船渡線を越えた山野なども城域だといわれているから、広大な城だったようだ。丘陵は畑や農地になっているが、周囲の林には椿が多いところである。

「伊豆大島から椿売りが来たが、米崎の椿群を見て、ここでは商売にならないといい、帰って行った」
 そんな話題もあるほどだ。

 米崎漁港はこの岬の袂で、10軒のカキ養殖業者がいる。そのひとり晴男さんは、米崎城の家老の末裔である。
 祖父母の代、あるいはそれ以前からか、本丸のある城郭から下り、漁業に便利がよい海岸に居住を移している。
 昭和大津波、チリ地震津波では自宅が損傷し、それに懲りて、晴男さんの親が本丸に近い台地に住いを戻している。標高16メートルだという。

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小説取材ノート(31)陸前高田=30分間はとても長いんです

 大津波に襲われた高田市は、1年半経ったいまなお荒涼とした地形が拡がっている。被災後の取材で、「こんなにも標高がない町だとは思いませんでした」と多くの声を聞く。住人の話と現地を何度も歩いて、地形を解析してみた。
 気仙川(高田市)の河川が数千年かけて、山奥から土砂を運びだし、広い扇状の洲を作っていた。所どころには泥があるが、それも埋め立てられて平坦化されている。文明がごく自然に発達してきたのだ。


 広田湾の海岸に沿った集落は、ホタテ、ワカメ、カキ養殖の漁業の盛んな地区になった。一方で、中心部はどこまでも平坦な土地だけに、都市文化が発達してきた。高田市役所、JR高田駅、大町商店街、大型スーパーなどもできた。
 これら市街地から海岸の間は2-3キロの距離がある。民家、ビルなど建物や産業が密集してきたことから、住民にとって海は意識外で、ふだん海、海岸、潮など感じられない生活になった。夏休みに海水浴に行くていどの認識だった。

 日本は災害列島である。有史からの経験則だけで、津波が襲う角度一つすら正確に測れない。人間の想定、仮説から外れたことが起きる。3.11はそれを教えてくれた。それをもって1000年に一度だという。5000年に一度だったかもしれない。

 明治大津波、昭和大津波、そしてチリ地震津波でも、高田市街地にまで津波は押し寄せなかった。約200年の経験からしても、市街地の住人は、大津波警報が出ても、ここまで来るはずがない、と信じ込んでいたのだ。
「30分は長い時間なんですよ」
 2時46分の大地震の直後、強い余震もきた。一瞬、大津波がくるかな、と誰もが一度は脳裏で意識したはずだという。

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小説取材ノート(30)陸前高田=確定申告の日が、生死の境い目

 3月11日の大津波に襲われたときは、国税の「確定申告」のさなかだった。
 陸前高田市税務署は、同市の中心部に位置する、市民会館が会場になっていた。大津波で、3階建ビルは完全に水没し、確定申告に来ていた人たちは逃げ場を失い、ほとんどが命を失くした。
(3階会議室と天井との空気層で、生き長らえた人がいる、と一部で報じられている)。

 一つ間違えば、市民会館で命を失くしていた、ふたりの人から話を聞くことができた。その一人は陸前高田市の水産業の大和さん(仮名)である。
「忘れていましてね、3月11日が確定申告の日だった、と。所用で、高田から大船渡に向かっていたんです」
 同市の税務署は各事業者に対して、「あなたは○日に来てください」と申告日が指定されているのだという。(東京は申告者の都合で出向く)。おおかた最終日近くの混乱を防ぎ、職員の手を平均化するためだろう。
「私の車が大船渡市街地の手前にさしかかった時、大地震が発生したんです。車が激しく揺れたし、余震もひどいし、これじゃ大船渡に行ってもダメだな、と考えたんです」
 相手先の事務所は地震できっと物が崩れ、仕事の話などできないはずだ、と大和さんは高田に引き返してきた。山間の高所のバイパスを経由し、高田市街地の低地に入る手前まできた。
「小学生たちが山の方に避難していました。だから、津波かな、と車を停めました」
 わずか数分後に、大津波の襲来があったのだ。
「確定申告で、市民会館に行っていたら、この世にはいなかったでしょうね」
 大和さんは大船渡と、陸前高田と、双方の津波に巻き込まれず難を逃れたのだ。

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小説取材ノート(29)気仙沼=「ささかぜ、現在地を知らせよ」

3.11東日本大震災の発生後の、気仙沼海上保安署の緊迫した任務が取材できた。

 2時46分に大地震が発生した。合同庁舎から担当職員5名が、巨大な余震すらいとわず、小型巡視艇「ささかぜ」の係留地に走った。艇に飛び乗ると、すぐに出航した。
 気仙沼はカツオ、サンマがメインの漁港だ。入港中の漁船など船舶に対して、
「津波に注意せよ」と勧告しながら、ささかぜは沖に出ていく。水深50メートル以上の海域に出ないと、津波から艇は守れない。

 合同庁舎で指揮する同保安署長の目には、はるか沖合いの津波が見えてきた。
「どうか、無事にいてくれ」
 と祈る気持ちだったという。
 もし津波で転覆すれば、殉死者を出してしまう。むろん、他署から捜索応援など貰えるはずがない。救助の手段を失ってしまう。

 庁舎は地震発生時から停電だ。小型発電機を回し、無線機を使えるようにさせた。
「来た、来た、津波が……。凄いことになっている」
 気仙沼を襲う大津波は、沿岸の備蓄石油タンクを流し、停泊する船舶をなぎ倒し、家屋を流す。
 海上保安署の庁舎すら、津波が入ってくる。

「ささかぜ、現在地を知らせよ」
 署長は無線で呼びかけた。
『第一ブイの沖に到達』
 そこは水深50メートルだ。
「よくぞ、完遂できた」
 署長はうれしかったという。

 その後の「ささかぜ」は、海上に流された被災者たちの救助活動や、行方不明者の捜索を行う。2クルーの交代制で、24時間の活動である。
 他方で、気仙沼大島に火災が発生したことから、消防職員たちを輸送する。島の病人が出れば、本州側に搬送する。

「船底1枚下は地獄です。それは漁業者も保安職員もおなじ。海上では職員が1人失敗すれば、船全体が危なくなります。たとえば、1人の見張りを欠いたら、それだけで衝突の危険性が高まります。密集した海上のガレキのなかで、海上保安署の船が動けなくなると、誰も助けてくれません。安全運航に気をつかう毎日でした」と署長が語る。

 気仙沼はリアス式海岸だから半島への道路がないし、ささかぜに頼るところは大きい。交信するヘリから、遺体発見、と連絡が入ると、ささかぜはそちらに向かう。ガレキが漂着し、近づけない。となると、管理艇(ゴムボート)引っ張って行っていく。


「警察も、自衛隊も、みんな同じでしょうけど、震災の後、職員のなかには家族と連絡が取れず、精神的につらい面が多々あったと思う。3.11から最初の1か月は合同庁舎で、雑魚寝で、不眠不休でした」と話す。

 全国の海上保安部(沖縄を除く)から、職員や潜水士が同署にも派遣されてきた。特殊救難隊が羽田から来ていた。海上保安庁による懸命の捜索が続けられた。
 震災直後から3か月経っても、海水の透明度が悪く、1メートルすら見えない。目視で探する。ソーナーで探す。

「地元の人は、人が海に落ちたら、どこらに沈んでいるとか、この辺りに流れ着いているとか、と私たちよりもくわしい。そこを集中的に探すと、ご遺体が発見できるケースも多々ありました」
 台風や大しけで海が荒れた後、遺体が発見できる確率は高いともいう。

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小説取材ノート(28)陸前高田=真夜中『助けてけれ』と絶叫、耳をふさぐ

 チリ地震津波と3.11大津波と、双方を体験した、陸前高田市に在住する、元タクシー運転手の川野(仮名)さんから話を聞くことができた。

 1960(昭和35)年5月23日に、チリにマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生した。大津波は平均時速約777Kmの猛スピードで、ハワイ諸島を襲い、翌24日の明け方4時ごろ三陸を襲ったのだ。
 佐野さんはタクシー会社の宿舎で寝ていた。「津波が来たらしい、(陸前高田市)気仙町に客を迎えに行ってくれ」という指示を受けたという。
 地震はないし、津波警報もないし、半信半疑で車を走らせた。姉歯橋(あねはばし・橋長147.2メートル)まできた。鉄骨のがっちりした姉歯橋を渡れば、気仙町だ。(橋の形状はポニートラスト)。

「気仙川をみると、二階建ての家が10軒も、20軒も遡ってきて、姉歯橋の橋脚にぶつかり、バリバリ、バリバリと壊れていました。後から家がどんどん遡ってくるし、怖かった」と、佐野さんはまったく予期しなかった光景だったと話す。
 高田松林の方角を見ると、夜明けの海がモコモコ盛り上がり、黒い絨毯のように、不気味に膨らんできた。もたもたすれば、車が飲み込まれる、と佐野さんは判断し、タクシーをUターンさせると、いま来た道を引き返す。

                                  ☆ 広田湾の遠望

「一直線に逃げても逃げても、黒い絨毯は追いかけてくるし、アクセルを踏む足がガタガタ震えていました。国鉄の線路があり、踏み切りがやや小高くなっていましたから、そこで海水が止まるだろう、と思うと、やっと気持ちが落ち着きました。でも、怖さはいつまでも残りました」と話す。

 チリ地震津波は気象庁の津波警報が出ておらず、まさに「寝耳に水」のたとえ通り、住民は夜明けに襲われたのだ。それだけに、住民の犠牲者が多かった。
 佐野さんのように、到達したチリ地震津波を正面から目撃した人は数少ないし、貴重な証言である。

 ちょうど半世紀が経った、3.11東日本大震災が発生した。

 佐野さんの自家は、広田湾に突きだす、岬の丘陵にあった。自宅は標高が目測で約30メートル。ふだんから、チリ地震津波の経験(潮位が4メートル)から、「わが家は大丈夫だ、ここまで津波が来たら、高田は全滅だ、と常日頃から老妻と話していました」と佐野さんは話す。

 2時46分に大地震が発生した。

「チリ地震津波の経験から、岬の高台まで津波が来ないと、のんびり、息子と孫たちと広田湾をみていました。カキの養殖イカダが、100m競争みたい流され、行ったり来たりしていました。『すごいスピードだな』と話しているうち、眼下から水がゴーとあがってくるし、気づけば息子の家(6年前に建てた新築、標高約20メートル)が流されはじめました。もう慌ててしまった」と狼狽ぶりを語りはじめた。

 津波は『波』でなく、海水が一気に浮き上がってくる状態だと教えてくれた。

「潮がどんどん上がるし、逃げるうち、わが家の庭下まで、たちまち潮がきたんです。家のなかにいた老妻に、逃げろ、と声をかけました。老妻は『まさかここまでは来ないでしょ』と半信半疑で、なにも持たず、着の身着のまま、高所の城跡(標高約50メートル)へと避難をはじめました。後ろの電柱は倒れるし、わが家は流されるし、命からがらです」と恐怖の体験を話す。

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小説取材ノート(27)気仙沼大島=燃える家屋が灯籠流し

 気仙沼大島と本州の唐桑半島は狭い海峡である。「大島瀬戸」と呼ぶ。生カキの養殖で名高い。
 3.11で、太平洋側からの津波と、気仙沼湾からの津波とが、3日間にわたり、左から右からと襲来したところである。

 気仙沼大島の外浜はその大島瀬戸に面した、小さな集落で7軒あった。現在は家屋はすべて流されてゼロである。合計9人が亡くなった。被害が大きかった。

 助かった女性(60代)から、話が聞けた。7軒のなかでも、やや高台だった。(私の目で、それが確認できた)。宮城県沖がきたら、津波は10メートルの高さだから、わが家は大丈夫だと、彼女はシュミレーションしていた。室内で、大地震で倒れたものを整理していた。

「バカ、逃げろよ」と夫に言われた。
 夫は海峡のカキ養殖イカダから、急いで漁船でもどり、自宅をのぞいたようだ。

 彼女は2階の窓から、海を見たならば、津波が岸壁に襲いかかっていた。濁流だった。大島瀬戸は船や家が流れていた。「ここも危ない」と手にするものも一切なく、急きょ94歳の婆ちゃんを背負おうとした。
「元気なものだけで逃げて。とにかく逃げて」と拒絶したという。
 真下の家はもはや流れ出している。
 婆ちゃんは頑として聞き入れなかった。
 津波に追われた家族は、必死に裏山の沢沿いを駆けずりあがった。途中からふり返ると、自宅の屋根がすっぽりなかった。90代のお年寄りは、9人の犠牲者の一人になった。

 亀山の中腹まで来ると、大島瀬戸の石油タンカーの船員が、助けを求めて手を振っていた。「私たちにはどうすることもできなかった。その船員が助かったか、どうかも分からない」と話す。
 夜の津波は向きを変えたようだ。停電で真っ暗になり、何も見ることができない。しかし、燃える家屋が大島瀬戸を行ったり来たりしている。まるで「灯籠流し」のようだったという。

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小説取材ノート(26)陸前高田=脅しの邪教もはびこる、宗教被害

 2011.3.11に大津波が襲来した。襲い狂う津波はとくに引きが強い。あっという間に、住人は津波で海洋に流された。渦巻く潮のなかで、家屋や建造物、構造物の下敷きになった。

 人間が極限で生死を分けるのは72時間(まる3日間)だという。それ以上経っても、奇跡的な生還者もいた。
「まだ生きている」それを期待しながらも、日を増すごとに、「もうダメかも……」と絶望視してくる。

 昨年同月、陸前高田市内のある中学校の遺体安置所には、300人以上の身元がわからない遺体が柩に入っていた。DNA鑑定が全国にわたって分散されておこなわれた。そのうえで、確認できた順に、遺体が身内に引き取られていった。
 地元の火葬場は能力をはるかに超えていたので、千葉市や佐倉市に運ばれ、遺骨になり、地元に戻ってきた。

 それでも、なお数百人の行方不明者がいた。家族は淋しくて悲しいけれど、どこかで死を認めて区切りをつけた。否、1年半経った現在も、どこかで記憶喪失になって生きている、というかすかな望みを持って、死を認定しない方もいる。

「遺体が見つからなくても、霊がさ迷ってはいけない、葬ってあげよう」
 そのように区切りをつけ始めたのが、仏教徒の方々は49日、100日忌、お盆の頃(施餓鬼会・せがきえ)だった。

 各宗派の宗教家、宗教大学の学生たちが、早くから被災地に入って活動をしていた。むろん、海外からも宗教家が現地にやってきた。誠実に火葬や葬儀の相談にのり、遺族の心の安らぎに対応していた。

 一年経ったいま、私は被災地を歩いていて、首を傾げたくなる宗教家の話も聞かされる。
 宗教は社会秩序、法規制の枠から、ときとして治外法権になる。法的に訴えることも難しい。被災地の宗教とはいかにあるべきか。メディアは、宗教活動への介入だ、という批判を怖れて取り上げない。

「早く、ちゃんとした葬儀をしてやらないと、成仏しないし、地獄に行ってしまうぞ」
 脅しに似た、怪しげな宗教、偽ものの宗教家もかなり横行していたようだ。葬儀の方法などが指図された挙句の果てに、金銭が絡んでくるという。邪教というべきだろうが、当人がまじめな宗教活動だといえば、それまでだ。


 被災者たちは失望、落胆、悲しみの底に突き落とされている。茫然とした虚脱状態で、なにも考えられない。
「甘い言葉」、「恐怖をかきたてる」。これら偽物を見抜く抵抗力が弱くなっている。無防備になり、邪教とも疑わず、つい導かれてしまう。

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小説取材ノート(25)陸前高田=10月1日は女が泣く日

 高校女子バレーで2度全国制覇(優勝)を果たした、浜の女性から取材を続けた。バレー監督の道があったのに、なぜカキ養殖業に? という疑問から、結婚の経緯を訊いてみた。

 彼女は東京の実業団時代に、友人の家で、同郷の男性と知り合い結婚した。東京に住んでいたが、夫はやがて高田に戻り、カキ養殖業の高齢の親の後を継ぐという。夫婦して、高田にもどってきた。

 いまや夫は50代の働き盛りで、同市のカキ養殖業で指導的な立場にある。

「私たち夫婦は高田に戻っても、親に頼らず、夫婦で頑張り、漁船も買い、イカダも造り、漁網も、浮(うき)なども増やして貯めてきました。大津波で一瞬にして消えてしまいました。思い出すたびに、涙が出てしまいます……」
 と彼女は目元をぬぐってから、
「ただ、私たちの家だけが10軒ちゅう一軒、津波の被災をまぬがれたのです。(9軒は全壊)。夫の祖父母が昭和大津波で家屋を失くし、次なる津波を予測し、丘陵の高所に家を建てたから。私たちはそこに住んでいました。家を失くされた方の前にでると、私の所為(せい)ではないのに、なぜか申し訳なくて、話したくない話題になってしまいます」
 彼女は丘陵の家から毎日浜に降りてきて、ブルーシートで覆われた、屋根も壁もないカキ作業所で働いている。

  大津波から、1年余りが経った。岩手県・陸前高田市のカキ養殖業者の10軒は組合形式で団結し、再起を図っている。しかし、2013年秋までカキの収入はない。
「被災後、借金をしてでも、もう一度、漁師をやろうと、誰が提案されたのですか。人間には楽天的な人と、悲観的な人がいますし、強気と弱気の性格があるでしょうから」
 私の関心はそちらに向いた。

「性格の問題よりも、やはり後継ぎがいるか、どうかですね。私の家には養殖をやる長男(20代)や3男(10代後半)がいました。被災後に家族で話し合いをしました。当座のお金がいるので、息子たちはガレキ処理の現場に働きに出ましたけれど、漁師はやるぜ、といってくれました。それが強い後押しになりました」
 A地区で、10軒ちゅう2隻の船が残り、それを組合方式で共有して使う。森林組合から丸太を購入(国の補助金)し、新しいイカダづくりがはじまった。

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小説取材ノート(24)陸前高田=元女子バレー日本一、浜で再起を語る

 三陸の養殖業者たちは大津波で、漁船、漁具、イカダなどの生産手段を失った。若者たちは将来を悲観し、「もう漁師などやってられない、また津波がきたら、一切合切、無くなるんだ。おなじ目に二度も遇いたくない」という考えが強かった。

 かれらは養殖業への再起にたいして意欲がなく、転職を図ったケースが多い。
 7、80歳代の漁師ともなると、体力と気力がなく、仮設住宅でひっそり暮らす。5、60代で、なおかつ跡継ぎがいる漁師から、再起が始まってきた。

 カキ養殖は種付(たねづ)けから収獲まで、2年間を必要とする。その間はゼロ収入である。無収入で精神的にどう耐えられるのか。
 3.11から1年余り、どのような精神状態で過ごしてきたのだろうか。どのように再起を図っているのか。それは私の3.11小説の主要なテーマのひとつである。

 陸前高田市・A地区の養殖ガキ業者は10軒ある。かつておなじ集落に住んでいた。
 3.11の大津波の襲来で、うち9軒の家屋が流されてしまった。漁船を失い、収穫期だったカキイカダも破壊された。その上、妻を亡くした漁師もいる。営々と稼いできた大切な人的、物的な蓄財を一瞬にして失ったのである。そして過去からの建造費や家屋のローンだけが残った。

 3.11から2ヶ月半は為す術もなく、茫然自失の精神状態だったと、50代の漁師の細君が当時の苦境を語る。

「あのころ浜に行っても、家屋や家具のガレキで、海面がまったく見えませんでした。そんな海を見ることすら怖かった。家財産も、漁船も、漁具も一切合切流されてしまい、イカダを作る道具すらもない。大きい漁船がないと、カキの養殖はやっていけない。どう生きたらよいのか、それもわからず、毎日が悲しくて、泣いてばかりいました」
 彼女はかつて高校女子バレーでインタハイや国体で、2度も全国制覇(優勝)を果たしている。実業団でも活躍した輝かしい経歴を持つ。スポーツで鍛えた強靱な精神力を持っているはず。それでも被災を語る彼女は、大粒の涙を流す。

 そして、彼女は一年間にわたる、再起にかける執念や苦労話しを語ってくれた。

「昨年、5月頃から、男手の漁師(10軒)が集まり、カキ養殖業の再起について相談をはじめました。跡継ぎがない人は、これから借金するのも考えものだし、とずいぶん悩まれていたようです」

 漁師の男よりも、浜の女の方が精神的に強かった、立ち上がりは早かった、という話も各地で聞いてきた。
 A地区においても、女性どうしでカキ養殖の再起を話し合ったり、団結を誓い合ったり、そんな打ち合わせはありましたか……? 

「女だけの話し合いは一度もなかったです。9軒はそれぞれ仮設住宅が小学校、中学校とバラバラです。皆して顔を合わせる機会もなかったわけです。お父さん(夫)たちがカキ養殖業をもう一度やるといえば、奥さん連中もそれに従う。そんな感じでした」

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