A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(36)陸前高田市=将来の世界遺産を取り壊すな

 広島市は、一発の原爆で、26万人が犠牲となった。悲惨な原爆ドームを残すことで、悲しくてつらい思いをする人びとがいっぱいいた。放射能被害で、白血病とか癌とかで苦しんでいる人から、憎悪の目で原爆ドームが見られていた時代もあった。

 原爆投下の当事者の米軍が進駐してきても、広島市は原爆ドームを残した。二度と、市民の頭上に核をさく裂させてはいけない。悲惨な記憶を風化させない。そのためにも、ドームを残す手段を取った。
 それが後世の世界中の核抑止に役立ってきた。

 3.11は1000年に一度の大津波で、東日本の沿岸は大被害を出した。陸前高田市の市役所、市民会館、体育館がそれを象徴している。それらはいまや取り壊されそうになっている。何で壊すのだろう。
「なんで急いで壊すのかな」という疑問が生じる。

 東日本大震災はフクシマ原発を含め、有史において最大の大惨事だし、人びとの記憶から風化させてはならない。そのためには、東電福島第一原子力発電所(使用不可能として)残るだろうし、陸前高田市の悲惨なビル群はぜひとも残すべきである。


 さかのぼれば、三陸沿岸は明治大津波、昭和大津波、チリ地震津波と、過去から悲惨な体験にもかかわらず、半世紀ごとに、大勢の死傷者を出してきた。なぜなのか。それは記憶の風化が最大の要因である。
 かつて津波は口承ばかりで、被害を象徴するものがなく、人びとの記憶から津波の恐怖が薄らいでいたからだ。

 警戒心を失くした住民は、3.11の大地震の後でも、大津波警報が出ても、ろくに逃げなかった。陸前高田市の市民は、チリ地震津波の体験から4m以上の津波は来ないと信じていた。JR大船渡線を越えて津波がこないと思い込んでいた。


 ところが20mの潮位の大津波が市街地を襲った。一度の大津波で、公共の建物、民家、あらゆる構造物がことごとく被害に遭っている。被災した建物はどんな言葉よりも、被害をリアルに伝える。人びとが雄弁に説明しても、かなわない。

 中心部の主要な建物は被災地のモニュメントとして残すべきだ。全国の人に、実際に目にしてもらった方が、津波の教訓になる。言葉よりも、目で見た情報量ははるかに多い。となると、広島の原爆ドームと同様に、世界遺産にもなるだろうに。そう考えれば、全部が全部壊さなくてもいいはずだ。

「新しい都市計画で取り壊す」という、ことばが還ってきそうだ。市街地の全部を壊してしまったら、教訓は伝わらない。日本は災害列島だ。大津波の被害が、あすどこか関東大震災、南海トラフなどが起きても不思議ではない。陸前高田市だけのものだという考え方を越えてほしい。

 被災した建物の崩壊が心配ならば、原爆ドームの補強技術を学びとるべきである。

 陸前高田市は、高田松原の7万本の観光が売り物だった。それらは全くなくなった。どんな学者や建築者が将来像を描いても、世界遺産級の都市は作れないだろう。

 陸前高田市のトップは、自前のお金で広島に行き、本気でじっと原爆ドームを見たらよい。「26万人が犠牲になっても、なぜ取り壊さなかったのか」と考えたらいい。そして1945年の被災から半世紀後に、なぜ世界遺産になったのか、と思慮してみる。
 それは「二度と過ちをくり返さない」という一点に集約できるからだ。一つの原爆、一つの大津波、そこに共通点はあるはずだ。

 2011年3.11の陸前高田市が半世紀後に世界遺産になるかどうか、その瀬戸際に立っている。市長をはじめとしたトップの判断と責任は重大だ。取り壊してしまえば、そこから人びとの津波にたいする恐怖心と警戒心が漸次消えてしまうだろう。

 日本中の誰もが、「生きている時に、もう一度、巨大な大津波を見ることがあるかもしれない。あなた自身が被災者になる可能性もある」と認識するべきだ。
 災害は忘れたころにやってくる。災害は忘れさせないことなのだ。当座は日本遺産として、モニュメント『陸前高田市の大津波・被害エリア』がいまならば創れる……。消えてからでは遅い。

 

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