小説取材ノート(32)陸前高田・米が埼=津波と、漁師と、歴史と
三陸地方はリアス式の入江や小港が連続する。それぞれに漁業が発達している。車で5分も走らせれば、漁法が違う。カキ養殖の場合は、杉丸太のロープの結び方がそれぞれ違う。陸前高田市の米崎地区は杉の丸太を使う。唐桑町ではイカダに竹を使う。
大船渡になれば、4億円で遠洋漁業の船を買う。隣り合う湾内はワカメ漁である。漁師や漁船員たちの気質も違う。復興への態度も考え方も違ってくる。
陸前高田市の米崎岬は広田湾の北に突きだす。3方が切り立った断崖で、海城の構造を持つ。東西約300m、南北200mの規模の城郭である。土塁や空堀などが現存する。
敵から兵糧攻めを受けたとき、兵士が岩壁の上から、大量の米を流して水に見せかけた。『滝があるんだぞ、登れないぞ』とカムフラージュした。このことから、「米崎城」と名付けたという由来がある。
西暦1300~1500年代の築城。造った武将の名は不明だが、城主・浜田広綱(千葉安房守)と大和田掃部(安房守配下の広田城主)の墓がある。
本丸は丘陵の上部にあり、八幡神社も鎮座する。推定・海抜40メートルで、広田湾や広田半島が一望できる。海側の半島から、大船渡線を越えた山野なども城域だといわれているから、広大な城だったようだ。丘陵は畑や農地になっているが、周囲の林には椿が多いところである。
「伊豆大島から椿売りが来たが、米崎の椿群を見て、ここでは商売にならないといい、帰って行った」
そんな話題もあるほどだ。
米崎漁港はこの岬の袂で、10軒のカキ養殖業者がいる。そのひとり晴男さんは、米崎城の家老の末裔である。
祖父母の代、あるいはそれ以前からか、本丸のある城郭から下り、漁業に便利がよい海岸に居住を移している。
昭和大津波、チリ地震津波では自宅が損傷し、それに懲りて、晴男さんの親が本丸に近い台地に住いを戻している。標高16メートルだという。
3.11の大津波では、「自宅の床下浸水で止まり、畳は濡れなかったんです。床下浸水でとどまったから、米が崎を襲った津波は16メートル40センチでした」
晴男さんは明瞭に津波の高さを測っている。これは貴重な証言である。今後いつか予想される、マグニチュード9.0の大地震があれば、大津波はどの角度からか予断は許さないが、16メートル40センチの高さで襲いかかってくることは必然だろう。
1978(昭和53)年のチリ地震で、米が崎漁業の集落は被害をこうむった。晴男さんの家を除いて、9軒はいったん丘に上がった。だが、昆布干しで収入を得られたことから、いつしか便利な海岸に戻って新しく家を建てた。
これが三陸地方の典型的な、漁師と津波被害との関係である。
「高台に自宅があると、毎日、海岸の作業場に往復し、漁具を運ぶだけでも大変ですよ。海辺の方がそれは効率が良い」
それでも、晴男さんは丘陵にとどまった。
3.11の大津波で、9軒の家屋は流されてしまい、妻子をも亡くし、いまは仮設住宅にすむ。一度水没した米が崎の集落は行政指導で、元の場所に宅地は建てられない。
「蜂の巣を軒下から落としたかのように、米崎の住民はバラバラになってしまいました」
元住民の有力者の一人は語る。