小説取材ノート(28)陸前高田=真夜中『助けてけれ』と絶叫、耳をふさぐ
チリ地震津波と3.11大津波と、双方を体験した、陸前高田市に在住する、元タクシー運転手の川野(仮名)さんから話を聞くことができた。
1960(昭和35)年5月23日に、チリにマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生した。大津波は平均時速約777Kmの猛スピードで、ハワイ諸島を襲い、翌24日の明け方4時ごろ三陸を襲ったのだ。
佐野さんはタクシー会社の宿舎で寝ていた。「津波が来たらしい、(陸前高田市)気仙町に客を迎えに行ってくれ」という指示を受けたという。
地震はないし、津波警報もないし、半信半疑で車を走らせた。姉歯橋(あねはばし・橋長147.2メートル)まできた。鉄骨のがっちりした姉歯橋を渡れば、気仙町だ。(橋の形状はポニートラスト)。
「気仙川をみると、二階建ての家が10軒も、20軒も遡ってきて、姉歯橋の橋脚にぶつかり、バリバリ、バリバリと壊れていました。後から家がどんどん遡ってくるし、怖かった」と、佐野さんはまったく予期しなかった光景だったと話す。
高田松林の方角を見ると、夜明けの海がモコモコ盛り上がり、黒い絨毯のように、不気味に膨らんできた。もたもたすれば、車が飲み込まれる、と佐野さんは判断し、タクシーをUターンさせると、いま来た道を引き返す。
☆ 広田湾の遠望
「一直線に逃げても逃げても、黒い絨毯は追いかけてくるし、アクセルを踏む足がガタガタ震えていました。国鉄の線路があり、踏み切りがやや小高くなっていましたから、そこで海水が止まるだろう、と思うと、やっと気持ちが落ち着きました。でも、怖さはいつまでも残りました」と話す。
チリ地震津波は気象庁の津波警報が出ておらず、まさに「寝耳に水」のたとえ通り、住民は夜明けに襲われたのだ。それだけに、住民の犠牲者が多かった。
佐野さんのように、到達したチリ地震津波を正面から目撃した人は数少ないし、貴重な証言である。
ちょうど半世紀が経った、3.11東日本大震災が発生した。
佐野さんの自家は、広田湾に突きだす、岬の丘陵にあった。自宅は標高が目測で約30メートル。ふだんから、チリ地震津波の経験(潮位が4メートル)から、「わが家は大丈夫だ、ここまで津波が来たら、高田は全滅だ、と常日頃から老妻と話していました」と佐野さんは話す。
2時46分に大地震が発生した。
「チリ地震津波の経験から、岬の高台まで津波が来ないと、のんびり、息子と孫たちと広田湾をみていました。カキの養殖イカダが、100m競争みたい流され、行ったり来たりしていました。『すごいスピードだな』と話しているうち、眼下から水がゴーとあがってくるし、気づけば息子の家(6年前に建てた新築、標高約20メートル)が流されはじめました。もう慌ててしまった」と狼狽ぶりを語りはじめた。
津波は『波』でなく、海水が一気に浮き上がってくる状態だと教えてくれた。
「潮がどんどん上がるし、逃げるうち、わが家の庭下まで、たちまち潮がきたんです。家のなかにいた老妻に、逃げろ、と声をかけました。老妻は『まさかここまでは来ないでしょ』と半信半疑で、なにも持たず、着の身着のまま、高所の城跡(標高約50メートル)へと避難をはじめました。後ろの電柱は倒れるし、わが家は流されるし、命からがらです」と恐怖の体験を話す。
大津波の襲来前に話がもどった。消防団員が居住地をまわり、『大地震のあとは津波がくるから、避難所に逃げてください』と呼びかけていた。
住民は連帯意識から、ふだんの訓練通り、高所からわざわざ低い避難所に出向いた。避難所が大津波にさらわれ、大勢が犠牲になった。消防団も住民も過去の、チリ地震津波の潮位を基準に考えていたのだ。その経験則が却って災いし、高田市街地の全滅を招いてしまったといえる。
☆ 城址の立木には3.11大津波によるゴミが付着。潮位が約30mの巨大なものだったと目測できる。ちなみにチリ地震津波は高田で4mである。
午後2時46分の大地震から、約40分後に第一波が到達した。
「夜中の津波が曲者でした。最大の津波は3.11の夜だったと思いますよ」と話す。第一波の強烈な津波の後も、間違いなく存在していた家が翌朝には消えていたからだという。
佐野さんとともに岬の城址跡を案内してくれたのが、大津波で工場を失くした大野さん(仮称)である。
太平洋側と広田湾と左右からきた津波が、同市の小友町(半島の袂)でぶつかり合い、激しい高波となった、と向かい合う被災地を指しておしえてくれた。昼夜問わず、左右からの津波に襲われ、半島の先端が孤立してしまったという。
夜は停電で街灯も、家の電気もない。「真夜中に、『助けてけれ』という悲鳴が聞こえ、みんなして耳を塞いだそうです」と話す。
この状況から判断して、第一波では無事だった人が、夜中の津波で流されている。大津波の最大潮位はおおかた夜9時~夜11時だったとみている。