小説取材ノート(22)気仙沼=被災地にも、真贋があり
気仙沼の海岸を徒歩で取材していると、
「国の支援があっても、気仙沼市の復興計画が進んでいないし」
という苛立ちと不安を漏らす、市民の声をよく聞く。行政につよく期待しながらも、半分はこんなものだろう、という雰囲気に感じられる。
気仙沼の海岸線は、大地震による地盤沈下で、満潮時には50-60㎝も沈む。土地をかさ上げしないと、家が建てられない。
行政の復興計画では海岸に沿って高い防波堤を作る、立案がなされている。観光・気仙沼港が目隠しになる、と反対派もいる。
是か非か。復興計画が進まないから、家屋や工場や店舗がいつどこに建てられるのか、そのメドがつかないのが実態だ。
水産加工業者などは冷凍庫とか、加工工場を失ったままである。内陸地に工場を建てると、魚市場からの搬送費がかさみ、競争力を失う。しかし、海岸は行政の規制で、新設できない。
一年あまり経っても、いまだ新設の加工工場が建てられない。だから、魚を水揚げしても、引き取り手の工場がないから、需要がない。
遠洋漁業のマグロ漁船などは、焼津や三崎に行ってしまう。気仙沼の街がなおさら寂れてくる。いまや悪循環に陥っている。
市街地の整備・復興が進まないので、街の排水溝が壊れたままである。大雨が降ると、水のはけ口がない。トイレの汚水を流す場所がない。
「海に流れ出ているようですよ」
とこっそり教えてくれた人もいる。日常の生活環境が改善されず、衛生環境の厳しさはなおも続いている。
同市魚町では、行政の対応を待っていられないと言い、不法建築で取り壊されることを覚悟のうえで、3-4階建ての鉄骨店舗を作っている人もいる。きっと建築確認も取れていないだろう。こうした強硬手段は、立場を代えてみれば、どこか被災者の苛立ちとして理解ができる。
収入面でも、雇用保険が期限切れとなってしまった。収入がない。水産加工業の工場が建たないから、再雇用してもらえない。働く場所がない。
仮設住宅暮らしには3年の期限があるし、わが家がどこにいつ建てられるのか、見通しがない。
「気持ちが落ち着かない」
それが被災した市民の生の声だ。
被災した家屋やビルの解体作業は、県外から業者が来ている。
「そういう人たちを相手にする、ホテルとか、屋台村(6-7カ所)が流行っているだけだよ。それをみて、気仙沼は復興が進んできていると思われたら、困るんだよな」
街は生気をなくし、人口が減lり、約7万人の人口が約6万人に減っている、と話す市民もいた。
気仙沼港の魚市場に近い、屋台村の麵・どんぶりの飲食店に立ち寄ってみた。店内の壁やカウンターには、全国各地からきた人たちが、「気仙沼がんばろう」「おいしかった、また来るね」というエールをびっしり書き込んでいた。
女店主に、大震災前の気仙沼の飲食街を取材すると、あまりにも要領を得ない。突っ込んで聞くと、気仙沼大島の出身だという。
私は大島になんども取材にいっているので、具体的な地名や人名を尋ねていくと、「実は地元じゃないの。仮設の屋台の権利を買って、昨年11月から商売をはじめたの」と言い、県外の出身地を漏らす。
全部とは言わないが、一部には復興を売りにした商売が横行している、と愕然(がくぜん)とさせられた。
その店主は口止めのつもりなのか、代金を精算後に「これを食べてください」とフカヒレ・スープの袋を差し向けてきた。
被災後に立ち上がれず真に苦む、多くの被災者がいる。収入がなく、声も上げられず、ひっそり生きている。哀れみとして利用する人がいる。こうした事実も現地にあるのだ。