小説取材ノート(19)大島=6歳の少女の悲劇は新たな伝説か
気仙沼大島は3.11で大地震、大津波、そのうえ4日間の山火事に襲われた。島民約3200人のうち死者は23人、行方不明者は8人だった。他の被災地と比べると、規模の割には犠牲者が少なかったともいえる。1000年来の伝説の語り継ぎが生かされたのだろう。
小・中学校はともに高台にある。大地震が発生した後、小学校では全員を体育館に集め、下校を認めなかった。他方で、中学校は生徒を下校させるか否か、校長と教頭の意見が対立していた。やがて、全校生徒の集団下校となった。(関係者の談)
3.11の大津波は太平洋側と、気仙沼湾からと2か所から津波が襲来した。そして島が2つに分断されている。その直前、生徒たちが津波の通り道にさしかかっていた。消防団員から、
「津波が来るぞ。危ない、学校に戻れ」
と語調も強く命じられた。
生徒たちは走って逃げた。間一髪のところ助かった。教職員の考え方、意見は割れたが、同島の小・中学生から1人の犠牲者も出なかった。
保育園(0歳児から年長組を扱う)から、一人の園児の死者が出た。それが同島では子どもの唯一の犠牲者となった。被災場所は田中浜と裏の浜とを結ぶ、津波の通り道で起きた。(写真・島の中央部)
遺族が取材に応じてくれた。
少女には諸事情があり、祖父母が0歳児から親代わりで大切に育ててきた。
3.11の強烈な大地震が発生した。祖父母はまず保育園から愛孫を連れてもどり、3人で避難しようと考えた。ふたりして車で保育園に迎えに行った。
園児たちは縁側の通路で、頭巾代わりの座布団を被っていた。
「年長組ですから、良いですよ」
保育士が少女の引き渡しを了承してくれた。
次なる行動は、裏の浜の店舗兼住宅(かつて新聞配達業)に立ち寄った。祖父が位牌を取りに、家のなかに入っていった。
その間、祖母と少女は車で待っていた。
「津波がくるぞ、田中浜から」
通行人が走ってきて教えてくれた。祖母がふり向くと、島の中央部の丘陵を越えた津波が、すぐ背後に迫っていた。
「父ちゃん(祖父)、早くして。津波よ」
そう叫けぶも、津波が車体を飲み込み、押し流す。脱出はできない。浮いた車はノーコントロールで民家や電柱、観光案内所の建物などにドーン、ドーンとぶつかり流されていく。祖母と少女は死の恐怖だった。
やがて、大きな建物の塀に車体がぶつかり停まった。そこは亀山観光リフトの近くだった。
田中浜からの第一波の津波が通り過ぎた。命が助かった瞬間だった。祖母はすぐさま後部座席の少女を車外に連れだしはじめた。雪が降っていた。ジャンパーはびしょ濡れで、全身が凍っている。
突如として、逆方向の裏が浜から、気仙沼湾の戻り津波が襲ってきたのだ。祖母は愛孫とともに、椿の大樹につかまった。
強烈な津波が祖母の手から少女を引き裂いたのだ。
位牌を取りにいった祖父は、この間に自家から脱出し、背後の高台へと逃げていた。と同時に、田中浜の第一波の津波で、わが車体が流されていく現場を目撃していた。
その後、津波は3日間にわたり何度も太平洋側と気仙沼湾側から押し寄せてきた。愛孫を見失った、祖父母たちは毎日、浜やガレキの下などを探しつづけた。祖母の頭髪は砂や油れでゴワゴワ、着替えの衣服もなく、水も電気もなく洗えず、来る日も、来る日も、涙を流しながら、少女を探しまわっていた。
少女が亡くなった裏の浜の現場
同年4月、島の小学校で入学式が行われた。少女はドレスを着た七五三の遺影で、入学式に参加した。
「かわいい子でね、教室にも遺影を座らせてあげました」
(取材した)同校の校長は祖父母を前にして、悼んだ心を優しくいたわっていた。
祖母が車で、一連の場所を案内して細かく説明してくれてから、ふたたび現在の住まいにもどってきた。
この間、なぜ祖父が位牌に拘泥して自家に戻ったのか、と私には疑問だった。
祖父が仏壇の間に案内してくれた。鴨居には少女の七五三のドレス姿と、和服姿の愛らしい写真が掲げられていた。仏壇を開けて見せてくれた。
位牌の数が多く、数年前に、若くして不慮の命を失った息子もいた。位牌とはいえ、わが子なのだ。津波で失いたくなかったのだろう。
そんなふうに、祖父の心境が理解できた。
居間の壁にも、愛孫のドレス姿の写真が飾られている。心痛む祖父母だけに、ふたりして掘り炬燵に入って話すうち、つい意見が衝突してしまう。
「津波だよ、と呼んだのにすぐ出てこないからよ」
「家の中まで、聞こえなかった」
そんな垣根のない対立が起きると、ふたりして愛孫の写真を見て、気持ちを静めるんですよ、と語ってくれた。
同年8月5日に、大島・気仙沼間の連絡船「ひまわり」が、少女を発見し、海上保安署に通報し、収容された。約5か月間にわたり海底で眠っていた少女は、遺骨になり、祖父母のもとに帰ってきた。
「写真のように、この愛孫(こ)はいつも朗らかでニコニコしていました。叱って泣いても、3分後には笑顔が戻っていました。私たち祖父母がいつまでも悲しんで涙を流してばかりだと、写真の愛孫(こ)に笑われてしまいます。1年経ったいま、私たち老夫婦は残された人生を、愛孫との6年間の楽しかった想い出を語りあって生きていきます」
その心境になれましたから、私たち夫婦は作家のまえで、大津波で愛孫を失った、すべての事実と経緯とを包み隠さず語れるのです、とつけ加えた。
大島には1000年前から『島を三つに分断する』という大津波の伝説がある。明治大津波、昭和大津波、ペルー地震でも、島は分断されなかった。それでも、伝説は子々孫々、今日まで伝えられてきた。
2011年、それが現実として起きたのだ。島の分断ルートで、天真爛漫(てんしんらんまん)の6歳の少女に突如として悲劇が生じた。少女は罪がなくして死す。この悲劇はどう語り継がれていくのだろうか。平成大津波の悲しい少女伝説として、数百年先まで涙で語られるかもしれない。