A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(17)気仙沼大島が燃える=4日間の火との死闘

 山火事が、気仙沼大島の最高峰である亀山の山頂を越えた。消防士の13人と、消防団員(50人)で島にいたのは約30人だけである。山火事は消しても、消しても、火が他に移り、なおも燃え続ける。炎は野獣とおなじで人間に襲いかかってくる。
「火は敵だ。この野郎、止めてやるぞ」
 消防士は山腹を駆けまわる。不眠不休の消防士たちの疲労は極致でも、消火をやめられない。

「ここが終わったら、あっちの消火もあるんだよな」
 湾内から水を取り、20mホースを20本以上つなぐ。400メートルの長距離送水である。山林の樹木がじゃまして、ホースは簡単に延びない。
 大島は孤立し、消防署の食料備蓄すらもなくなった。空腹でも、食べ物を探して走りまわる余裕などない。死闘だった。
 島人が炊き出しで、おにぎりを持ってきてくれる。そして、消火活動を手伝いたいという。

「住民がいくら助けたいといっても、住民には危険なことはさせられない。ケガ人を出したら、負けなんです」
 消防士は何度も断る。1か所を消しても、転戦(てんせん)で、次なる場所へと400メートルのホースをくり出す。

 大島の山火事の特徴は、地面を這って燃えていることだった。火の粉が飛ぶ火災ではない。それだけに舗装道路は、火を食い止めるには最も良い場所である。

「おらたちが防火帯を造る。火が来ていない山の地面を、あらかじめ掘る、削るだ」
 それは住民の提案だった。山の特徴からすれば、燃える樹木や草を切り取り、地面をむき出しにすれば、火炎はそこで止まるはずだという。
 2車線の林道に沿って、5車線、6車線に相当するベルト地帯を山中に造る作戦だった。

「この作業なら、住民は火炎に巻き込まれず、安全だと判断しました」
 消防士は語る。
 住民、ボランティア、企業の人、なかには中学生たちもいた。全員が力を合わせた。島を全焼させないと、土壌をむき出しにしておく防火帯づくりに懸命になった。

消防士としては民家の手前で、放水で建物を守ることに専念できた。

 消火活動を始めてから初日、2日目と、稜線や林道を防火地帯として守り続けた。しかし、山火事は魔物である。火は強風にあおられ、稜線の一か所を破った。盲点となった観光リフトを伝わり、山裾野に降り、島の南部へと移る気配が濃厚になってきたのだ。



 大島の中央部は太平洋がわと気仙沼湾がわと2か所からの大津波に襲われている。そして、島は北と南に分断されている。繁華街が津波の通り道(海峡)になり、家屋、家具、車、船などガレキの山である。それらはほとんどが可燃物だ。

「島の南側まで、類焼させるな。火が来たら、3200人の島民の逃げ場がなくるぞ」
 それは島民の恐怖だった。本州からの援軍はない。まさに、袋のネズミ状態に陥る。

 島の中央部のガレキに燃え移れば、火炎の勢いを増す。横転した車はガソリンだし、漁船は軽油だから、引火すれば、火力が勢い強まる。

「津波の通り道だが、ここを最後の防火帯にしよう」
 住民たちが総出となった。津波は一度だけではない。余震が来るたびに、津波に襲われる。これも、命がけの活動だ。

 島の南に燃え移ったら、命が危ない、という重大さがわかっている。それで手伝った人もいるし、それで恐怖をかきたてられて消火に加わった人もいる。
「最悪でも、島の中央、津波の通り道は渡さない」
 住民たちは家屋や家具や衣類のガレキの撤去作業をはじめた。

「数人が津波を警戒し、見張っていました。津波が押し寄せてきたら、ピーと笛を吹くんです。ガレキの撤去作業を中断し、全員で山腹の高台に逃げました」
 津波が引いたら、また可燃物のガレキ撤去を行う。


「陸に打ち上げられた漁船を下ろして、島民が全員で船で脱出など考えましたか」
 私は消防士に、その質問を向けてみた。それは素人考えだと判った。

 島の周囲は家屋や家具やイカダがびっしり詰まっている。海岸には隙(すき)間などなかったという。
「陸から船を海に降ろせたとしても、浮かぶ家の屋根を越えて沖に出られません」
 
「ガレキを押しのけて水路ができたとしても、津波が四六時中襲いかかってくる海です。船が転覆する危険性が高い。あるいは太平洋の遠方に流されても、(消防庁、海上保安庁、海上自衛隊など)海上捜索の手などどこもありません。膨大な犠牲者を出すだけです」
 津波が襲来する海に、小型船を出すなど自殺行為だと理解できた。
 
 真向いの本州・気仙沼では、石油タンク20数基が炎上し、火の海だ。船がたどり着ける港などないのだから。まさに、島民は逃げ場がなかったのだ。
 
「山火事はゼッタイに島の中央部で止める。そういう信念だけです」
 火事と人間の闘いだった。4日間の死闘の結果、山火事は鎮火した。

 それは3月17日午前11時3分だった。

「どんな心境でしたか」
 私は質問を向けてみた。
「雪が降っていたのはよく覚えています。雪上で座り込みました。疲れたではなく、終わったのか、という気持ちでした。映画のラストシーンに、自分がいるような光景に思えました」
「住人から感謝の言葉で、いまも記憶に残っているものは?」
「70代の女性から、『神様を燃やさないでありがとう』と感謝されました。寺の住職からも、火から守ってくれてありがとう、と言われました。田舎ですから、神仏を大切にする精神があるんです。それらの言葉がうれしかったです」

 火炎と死闘で、当座の大島は守れた。その安堵の後を訊いてみた。
「消火活動以外のことは殆どわかっておらず、家族はどうなっているのかな、とそちらの不安に襲われました」
 取材に応じてくれた、29歳の消防士は地震発生の日から、22日間の連続勤務だった。その後、休みの日には行方不明の母親を探しに出かけ、4月9日に、ご遺体を発見されたのだ。

掲載写真:伊東勝正さん(気仙沼大島・国民休暇村)、〈地図をのぞく〉

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