A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(10)気仙沼=小学校教諭の好判断

 気仙沼港内や、町なかの倒壊家屋はいまなお多い。県や市の合同庁舎は無残な姿をさらす。
 気仙沼市だけでも、3.11の後、今年の2月半ばまで1031体の遺体が収容されている。なぜ被害が甚大だったのか、と取材を重ねた。
 チリ地震の時は4メートルの津波だった。被害が出ていなかった。「昨年も大津波警報が出たけれど、海岸にちょろちょろでした。今回、6メートルの大津波警報が出ても、オオカミ少年になっていました」と多くの人は話す。さらには、「地震の揺れが大きいから、去年のちょろちょろよりも、多少は大きな津波がくるだろうな」と構える程度だった。

 実際には10メートル以上の津波が町を襲ってきた。地域によっては20メートルを超えた。津波に気づいてから、乗用車、ライトバン、トラックなどに乗り、高台に避難を始めた。
 地震による停電で信号機が消えている。道路は大混乱に陥った。津波の速度はランナー並みである。瞬く間に、人々は飲み込まれた。

 津波に追われた体験者から話を聞くことができた。
「波そのものは見えません。家々が背後からブルドーザーで押されて、次々に家屋を押し倒し、迫ってくる感じです。砂埃と水埃りが煙のように背後にわいている。逃げても、逃げても、家が追い付いてくる。死を覚悟しました」と恐怖を表現する。


 廃校となった気仙沼南小学校に行ってみた。校歌の石碑の側から、グランドいっぱに廃車が山積みだった。当時を知る人から取材した。
 生徒たちが下校を始めた時、大地震が発生したという。教諭たちが懸命に全生徒を学校に呼び戻した。
「地震で、わが子を案じて引き取りに来た親に対して、生徒はひとりも引き渡さなかった」
 教諭の判断は正解だった。
 すぐさま大津波だ。教師と生徒は3階に避難した。1階はたちまち水没した。

 もし生徒を下校させていれば、どうなったか。津波は生徒の背たけ以上だ。とてつもなく被害者が出たはずだ。第2波、第3波と、津波は立て続けに襲うようだ。初日だけではない。3日間も続く。それは今回の取材で、初めて知りえたものだ。

 小学校周辺は泥水で、3日間は校舎から出られず孤立していた。しかし、登校していた生徒の犠牲者はゼロである。
 記すには忍びないが、同校の犠牲者としては病欠の一人の生徒が亡くなっている。


 気仙沼魚市場にでむいてみた。市場は再開されていたが、すでにセリが終わって閑散としていた。市場前の仲買商、加工工場、周辺の商店、飲み屋などはすべて廃虚で、荒涼としている。

 魚市場の近くの海岸は陥没している。満潮時には下水から入った海水が入り、街なかで噴きだす。水たまりができる。
「夜になると、気味が悪いほど灯りがない、無人でひと通りがない、世界です」
 そのように教えてくれた。

 夕日が沈む。市場前の、夜の盛り場の繁華街がまったく灯火がなく、闇のなかに沈んでいく。実に、不気味な光景だ。
 
 市場近くの桟橋から、気仙沼大島行のフェリーに乗った。広島県・江田島から貸与された船だ。(2月末まで)。同船からも、日没後の魚市場周辺を確認してみた。
 船窓の枠いっぱいが真っ暗だった。時おり車のライトの光が走る。その光すら、ポツンと一つ、あっちでもぽつんと一つ、という表現が似合っている。町の情景は暗やみでなく、重い暗黒だった。

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